フランス人とインディアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:14 UTC 版)
「フランス領ルイジアナ」の記事における「フランス人とインディアン」の解説
アンシャン・レジームのフランスは、インディアンが国王の臣民になり、良きキリスト教徒となることを願ったが、フランス本国との距離とフランス人の開拓者の数が少ないことのために、この方向には動かなかった。公式の言い回しでは、インディアンはフランス国王の臣民と見なされていたが、現実にはその数的優位性によってほとんど自律していた。知事など植民地の役人はその意志を強制する手段を持たず、しばしば妥協していた。インディアンはルイジアナのフランス人に基本的な支援を提供した。植民地人の生存を保証し、毛皮の交易に参加し、遠征があるときは道案内を務めた。インディアンとの同盟は、イギリスに対する戦いで特に重要であった。 フランス人とインディアンは多くの分野で互いに影響を与えあった。フランス人は、繊維、アルコール、武器などを購入するインディアンの言葉を学び、ときにはその信仰も採用した。「森の走者」や兵士はカヌーや鹿皮製の靴を借りた。彼らの多くは野生の米や熊や犬のような様々な肉などインディアンの食材を食べた。植民地人は食料の供給をインディアンに頼ることがあった。クレオール料理はこの相互の影響の産物である。例えば「サガミテ」はトウモロコシをドロドロに溶かし、熊の脂とベーコンを混ぜて煮込んだものである。今日、セミノール語源の「ジャンバラヤ」は肉と米を使いスパイスを効かせた多くの料理のことを指している。時にはシャーマンが伝統的な療法で植民地人を治療することもあった(傷にはモミの木の分泌液、ガラガラヘビの咬み傷にはゼンマイを使った)。 多くの開拓者がインディアンの戦闘力を賞賛し恐れてもいたが、その文化を侮り、白人よりも人種的に混じり合っていると見なす者もいた。1735年、ルイジアナでは政府の承認無しに人種間で結婚することを禁じた。イエズス会の聖職者はインディアンの放縦な生活を憤慨していたと想像される。幾つかの不一致(インディアンはトウモロコシ畑を荒らした豚を殺した)や、時には暴力的な対峙(フォックス族、ナチェズ族の蜂起やチカチャ族に対する遠征)があったが、フランス人の方が数が少なかったために、ルイジアナにおけるインディアンとの関係は概ね良好であった。フランスの帝国主義は幾つかの戦争とインディアンの一部の奴隷化に現れた。しかし、ほとんどの場合、両者の関係は対話と交渉に基づいて築かれていた。
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