ペンビーナ襲撃(1871年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/28 00:50 UTC 版)
「フェニアン襲撃」の記事における「ペンビーナ襲撃(1871年)」の解説
フェニアンのジョン・オニールは1870年のカナダ侵入に失敗した後でセネイト派からサベージ派に変わった。その見返りにサベージ派統帥評議会の席を与えられた。1871年、オニールとW・B・オドナヒューという変わり者がサベージ派評議会にノースダコタ国境を越えてカナダに侵略することを求めた。評議会は概してカナダで冒険することと特にオニールに倦んでおり、それに応えようとはしなかった。オニールのアイディアは却下されたが、評議会は彼に武器を与えることを約束し、彼とその襲撃を公には非難しないことに同意した。オニールは侵略を率いる為にフェニアンから脱会し、ミネソタ州セントポールでカナダのウィニペグに近いマニトバを侵略する作戦を立てた。ジョン・オニールとW・B・オドナヒューおよびジョン・J・ドンリーに率いられた35名程の隊員がルイ・リエルの率いるフランス人とインディアンの混血であるメティの隊との合流を期待していた。オニールは部隊を率いて10月5日に国境のすぐ北にあるハドソン湾会社の基地を占領することができた。オニールとドンリーおよび10名の隊員がノースダコタ州ペンビーナ近くでロイド・ホイートン大尉の指揮するアメリカ陸軍に拘束された。襲撃は最初から躓いた。この拘束はアメリカ合衆国の領土内で起こったものであり、リエルが率いるメティ隊は侵略の初めにイギリス軍との停戦合意に署名した。リエルとそのメティ隊がオドナヒューを捕捉し、アメリカ合衆国政府に引き渡した。連邦政府の曖昧な対応の中で、オニールはダコタで1度、ミネソタで1度、都合2度逮捕されたが、釈放され、告発されることもなかった。オニールと共に逮捕された10名はオニールとドンリーに「騙された者」として裁判所から釈放された。
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