停戦合意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
新たに首相となったシャルル・ド・フレシネは清国との講和を打診し、穏健派が力を取り戻していた清国側も了承した。清国側は開戦前に結ばれた天津休戦条約を履行し、フランス側はバクレ伏兵事件の賠償請求を取り下げるなど戦後の関係改善を約束した。 停戦合意に至る直前、フランスは台湾戦線では優勢だった。3月、台湾ではフランス軍の駐屯部隊が基隆の包囲を破り台北に退却させた(基隆の戦い(英語版))。もう一つは海軍の攻勢で、澎湖諸島を占領下においていた(澎湖諸島海戦(英語版))。ただ、台湾全土を制圧するには至らなかった。戦争は両者手詰まりの状態でなし崩し的に終戦を迎える事になった。4月4日に停戦合意が結ばれると速やかに清国軍は条約を履行して軍を撤退させ、黒旗軍も清国本土へ撤収した。フランス軍も台湾島や周辺の島々などベトナム以外の地域から撤退して、海軍を引き上げさせた。 6月11日、フランス側の総司令官であったクールベ提督は終戦の直後に病死した。
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