停戦後とは? わかりやすく解説

停戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:01 UTC 版)

樺太の戦い (1945年)」の記事における「停戦後」の解説

1945年8月23日ソ連樺太島外への住民移動禁止し脱出できなかった住民ソ連行政下に入ることになった一般住民中心とした引揚事業は、1946年昭和21年12月本格的に始まり日本側では函館援護局受け入れ担当した1949年昭和24年6-7月の第5次引き揚げまで、千島方面あわせて20隻の引揚船投入され樺太からは軍民合わせて279,356人が、千島からの13,404とともに北海道へ渡った2006年1月1日時点厚生労働省データでは、千島方面合わせた引き揚げ総数軍人軍属16,006人、民間人277,540となっている。樺太長期在住していた者が多かったことから、本土縁故の無い引揚者が約1/3と高い割合占めていた。そのため、住宅入手就職にはかなりの困難が伴い長期わたって引揚者援護寮に滞在せざるを得ない者も多くあった。身元引受先がないまま函館滞留中に死亡した引揚者も、航海中の死者あわせて1,000人を超えた引揚者とその遺族相互扶助のために、1948年昭和23年)に全国樺太連盟結成されている。 ソ連軍占領直後に約2万3千人いた朝鮮住民は、ほとんどがソ連当局意向によって樺太残留させられ1952年昭和27年6月にはこの在地系の朝鮮住民2万7千人記録されている。戦後北朝鮮から移民した者や、ソ連によって中央アジアから強制移住させられた「高麗人」と合わせて在樺コリアン呼ばれ多くそのまま定住余儀なくされた。 詳細は「在樺コリアン」を参照 朝鮮以外の日本人住民でも、経済的事情から朝鮮住民ロシア人結婚するなどしたため樺太残留選択した者があった。1990年代中ごろには、終戦後生まれた子孫含めて300人が樺太生活していたが、高齢化による死去ソビエト連邦の崩壊後の日本韓国へ移住などで2010年には約200人に減少している。日本政府は、これらの残留者を対象集団一時帰国事業行っており、1年半1回程度日本帰国実現している。

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停戦後

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2020年ナゴルノ・カラバフ紛争」の記事における「停戦後」の解説

2021年1月11日ロシアウラジミール・プーチン大統領首都モスクワアゼルバイジャンアリエフ大統領アルメニアのパシニャン首相招いて首脳会談行った戦場となった地域復興向けた副首相級による作業部会設置合意戦後復興ロシア主導権発揮する狙いがあると報道されたが、パシニャン首相捕虜交換などが未解決だ指摘した2021年5月27日アゼルバイジャン国防省は、アルメニア軍兵士国境越えて地雷設置しようとしたとして6人の拘束発表したアルメニア国防省は6人が「拉致された」と反論し5月25日には国境地帯アルメニア軍兵士1人死亡した明らかにした。 2022年3月25日、「アルツァフ共和国防衛軍は同軍の公式Twitter通じアゼルバイジャンからドローン攻撃受けた発表した

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停戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「停戦後」の解説

5月8日午後11時1分に停戦発効され8日9日2日間はヨーロッパ全土祝日となった各地枢軸軍順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍戦闘ドイツ無条件降伏したにもかかわらずプラハの戦い終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦無視して戦い継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法明らかに違反するものであったドイツ占領下ノルウェー南端から日本向かっていたドイツ海軍UボートU-234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船降伏しようとした矢先5月14日に、便乗していた庄司元三友永英夫の2名の海軍中佐服毒自殺した。2人持ち物中には当時日本開発していた原子爆弾の開発欠かせないウラン235560キログラム含まれていた。 なおこの前後に、多数ナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦船舶徒歩バチカンスペインポルトガルノルウェーなどを経由してアルゼンチンブラジルチリボリビアなどの南アメリカ諸国逃亡しその後数千人が身分隠して逃亡続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国日本Uボート逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件混合した誤りであったソ連軍降伏した枢軸国将兵シベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧南欧東欧からは1200万人超えるドイツ人追放され200万人以上がドイツ到着できず命を落としたこの後ドイツとの戦い終えたイギリスアメリカ、イギリス連邦諸国将兵が残る日本との戦い元へ次々送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍満洲国との国境隠密裏送られた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:09 UTC 版)

青島の戦い」の記事における「停戦後」の解説

11月8日ヴァルデック総督は、日本軍便宜受けて膠州湾青島守備軍の降伏本国報告する。これに対してドイツ皇帝よりヴァルデック総督1級鉄十字勲章授与したほか、守備軍の善戦嘉する勅を発した青島入城時、ドイツ兵は日本兵には正対したがイギリス兵には背中見せたという。 多くドイツ軍捕虜日独戦ドイツ兵捕虜)は日本各地設けられ12箇所捕虜収容所移送され、のち整理統合により最終的に6箇所収容所1919年大正8年ヴェルサイユ条約締結発効まで長期わたって収容された。トラブル生じたが、徳島県板東俘虜収容所をはじめとした複数収容所では地元住民との交流があり、ドイツパン、ドイツ菓子楽器演奏鉄棒体操等が広められ日本残留する俘虜現れた。 大戦終結後1920年大正9年11月1日青島要塞攻略の功によって、神尾光臣大将功一級金鵄勲章授与されるQingdao 31.October 1914–7. November 1914 若宮搭載され運用された2機のモーリス・ファルマン水上機 重機関銃配置されドイツ軍塹壕陣地 海上移動する日本軍 戦後ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した俘虜送還

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停戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:22 UTC 版)

南オセチア紛争 (2008年)」の記事における「停戦後」の解説

2008年8月17日 インテルファクス通信によると、グルジアのイングリ水力発電所ロシア平和維持軍掌握2008年8月20日 アメリカ人道支援名目に、アメリカ海軍第6艦隊旗艦ブルー・リッジ級揚陸指揮艦マウント・ホイットニー、同艦隊所属アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦イージス艦)マクファール、アメリカ沿岸警備隊所属ハミルトン級巡視船ダラスの3隻を黒海派遣することを決定2008年8月21日から22日にかけて アメリカドイツポーランドスペイン各国海軍艦艇ボスポラス海峡を通峡し黒海入ったそれぞれO.H.ペリーテイラーブレーメン級フリゲートリューベック、アルバロ・デ・バサン級フリゲートイージス艦)アルミランテ・ファン・デ・ボルボーン、O.H.ペリー級ゲネラウ・カジミェシュ・プワスキであり、黒海での演習行いブルガリアルーマニア港湾寄航する予定である。NATOは、これら艦艇派遣2007年10月時点計画されいたものであり、今回紛争とは関係無いとしているが、ロシア側は「情勢安定化につながるとは思えない」と懸念示している 。 2008年8月22日 ロシア南オセチアアブハジア以外のグルジア領内からの軍の撤退完了した発表。ただし、アメリカフランスグルジアなどはまだロシア軍グルジア領内残っていると反論

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停戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:32 UTC 版)

第三次中東戦争」の記事における「停戦後」の解説

この1970年アラブ転換点となる重要な年となったPFLP旅客機同時ハイジャック事件きっかけ9月にはヨルダンPLO攻撃する内戦発生ヨルダン非難され孤立しPLOレバノン逃れ、後のレバノン内戦引き金となる。内戦直後エジプト革命立役者ナセル死去サダト大統領となった。彼はイスラエルとの講和目指す一方でシナイ回復などの有利な条件講和を果たすために再度イスラエルへの軍事行動画策空軍司令ムバーラク主導空軍再建や、イスラエル自慢機甲部隊打ち破るためのソ連からの対戦車ミサイル中心とする対戦車戦術導入などを推し進めた一方圧倒的勝利を収めたイスラエル側ではアラブ対す油断生じモサッドによる動向情報への反応鈍くなっていた。さらに奇襲による国際社会信用低下加え中東パワーバランス崩れる事を危惧したイギリス・フランスアラブ寄り政策転換しイスラエルへの武器輸出停止などの措置取ったこうした情勢変化が、続く第四次中東戦争緒戦における大損害へと繋がる事となる。

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停戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:50 UTC 版)

日本の降伏」の記事における「停戦後」の解説

8月15日正午からの玉音放送終了後、ただちに終戦に伴う臨時閣議開催され、まず鈴木首相から阿南陸相自決報告された。また午後に大本営大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍に対して別に命令するまで各々現任務を続行すべし」と命令し8月16日自衛為の戦闘行動以外の戦闘行動停止するように命令した。しかし、日本の敗戦知った厚木基地一部将兵徹底抗戦呼びかけるビラ撒いたり、停戦連絡機破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦戦争継続主張止んだ。他は大きな反乱起こらず外地占領地を含むほぼ全ての日本軍速やかに戦闘停止した15日早朝陸軍によるクーデター発生最中自決した阿南惟幾陸相をはじめ、「武人としての死に場所与えてくれ」と1123名(うち5人が生還とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った宇垣纏中将ウルシー沖から伊401内地帰投する途中アメリカ軍拿捕される直前艦内自決した有泉龍之助大佐陸軍省参謀本部大正天皇御野立所切腹し晴気誠少佐など、日本の降伏受け入れられず、また降伏責任負って、または連合国からの逮捕逃れ皇居前や代々木練兵場内外基地自宅などで自ら命を絶った軍人政治家民間人数千人に渡った。また東条英機陸相のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕出頭を命ざれたあと、自殺失敗し逮捕される者もいた。 なお17日には、日本本土偵察に来たB-32を、厚木基地日本軍機が攻撃し翌日米側搭乗員1名が死亡するなどのトラブル起きた。しかし、本土では同じよう連合国とのトラブルはこれ以降おこらなかった上、すぐにイギリス軍アメリカ軍陸海空軍相当数部隊上陸できる体制にあった。 しかし、わずか20数年前第一次世界大戦負けたばかりのドイツとは違い日本国家として確立して以来初めての敗戦で、さらに今だに本土首都陥落していなかった上に、まだ相当の軍人武器航空機船舶残っていた日本対す連合国軍動き慎重に慎重を重ね連合国軍日本占領部隊第一弾であるアメリカ軍日本本土上陸するまでに、結果として2週間要するという異例な長さだった。 17日鈴木貫太郎内閣総辞職し皇族である東久邇宮稔彦王首相継いだ皇族首相についたのは武器解除速やかに進めためともいわれ、皇族首相初めてのことであった副総理格の国務大臣には近衛文麿外務大臣には残留した重光葵大蔵大臣には津島寿一内閣書記官長情報局総裁には緒方竹虎任命された。また海軍大臣には元首相米内光政留任した陸軍大臣任命内定していた下村定陸軍大将23日帰国するまでの間、東久邇宮兼任した。 なおこの時点においても、日本連合軍占領され沖縄県を除く日本本土樺太千島台湾朝鮮半島などの開戦前からの元来領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部現在のベトナムマレー半島インドネシアティモールなどの北東アジアから東南アジアウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地維持しており、他にもタイ満州国などの友好国スイススペインアフガニスタンチリなどの中立国膨大な数の民間人軍人駐留していることから、これらの地からの引き上げ権限移譲速やかに行う必要があった。 そこで16日連合国中立国スイス通じ日本に対して占領軍日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機空母戦艦潜水艦など数千隻の残存艇上る各地日本軍武装解除進めるための停戦連絡機派遣依頼した。これを受けて19日には、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行塗装をした一式陸上攻撃機木更津から伊江島飛行し、そこからダグラスC-54マニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦及び全権移譲会談をするなど、イギリス軍オーストラリア軍アメリカ軍フランス軍対す停戦と武装解除順調に遂行された。 しかし、ルバング島日本軍残留兵として戦い続けた小野田寛郎様に1974年まで日本軍将兵として戦闘行為継続していたものや、アナタハン島のように島単位引き上げから取り残されるものも発生したさらには引き上げ受け入れず欧米諸国からのアジア解放」という、大東亜戦争理念信じてジャワビルママレーなどで勃発したイギリスオランダからの独立戦争協力する日本軍将兵や、再び国共内戦向かいつつある中華民国軍佐官級で残ることを依頼されそのまま残留決めたもの(通化事件)、のちに個人意思中国共産党人民解放軍編入されものもいた。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスオランダなどの現地政府軍などの双方に、日本軍残留した航空機九九式襲撃機九八式直接協同偵察機など)や戦車銃器など接収した武器そのまま利用されることも多かったまた、日本後ろ盾失った満洲国ソ連軍侵攻受けて崩壊し18日退位した皇帝愛新覚羅溥儀愛新覚羅溥傑満洲国帝室と、関東軍吉岡安直中将橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天侵攻してきたソ連軍身柄拘束された。さらに、少しでも多く日本領土略奪画策していたスターリン命令で、ソ連軍日本の降伏後も南樺太千島への攻撃継続した22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦攻撃を受ける三船殉難事件発生した北方領土択捉島国後島8月末、歯舞諸島占領9月上旬になってからであった。 なお日本同盟にあったタイは、16日日本降伏後に日本側の内諾得た上で宣戦布告無効宣言」を発し連合国側独自に講和した。 上記のような準備混乱経て、ようやく停戦から2週間後の28日連合国軍による日本占領部隊第一弾としてチャールズ・テンチ大佐率い45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍先遣部隊厚木飛行場到着。同基地占領したまた、同日大森英米軍の捕虜収容所アメリカ海軍軽巡洋艦サンファン」から上陸用舟艇手配され病院船「ビネボレンス」に怪我人などを収容していった。30日連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)の総司令官として連合国日本占領指揮に当たるアメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将厚木基地到着午後に横浜市内ホテルニューグランドに宿をとった。続いてイギリス軍オーストラリア軍ニュージーランド軍カナダ軍中華民国軍フランス軍ソ連軍などの日本占領部隊到着した

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