日本への亡命
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「ヴィクトル・スタルヒン」の記事における「日本への亡命」の解説
1916年に帝政時代のロシアのニジニ・タギルに、ロマノフ王朝の将校・父コンスタンチンと母エウドキアの一人息子として誕生。 1917年のロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、革命政府(共産主義政府)から迫害される。一家は革命軍に追われながらウラル山脈から広大なシベリアを横断し、国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びた。1925年に日本に亡命するが、日本への入国に必要な大金を妻が隠し持っていた宝石でなんとか支払い、北海道の旭川市へ入った。日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。子どもの頃の愛称はウィジャー。 旭川市立日章小学校へ入学。当時は白人が珍しかったこともあり、周囲からはいじめに遭うこともあった。しかし、成績優秀かつ運動神経も抜群で、徒競走では20m後ろからスタートさせられても一等になるほどだった。大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んであり、スタルヒンも学校のチームで活躍した。なお、尋常小学校5年生で既に180㎝を超えていたため、大きすぎるとして高等小学校のチームに入れられていた。
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日本への亡命
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1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝当局に露見し計画は失敗、同年末日本に亡命する。日本亡命期間中は1905年6月に法政大学法政速成科に入学、雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。
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日本への亡命(1898年-1911年)
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「梁啓超」の記事における「日本への亡命(1898年-1911年)」の解説
友人の譚嗣同が刑死した一方で、梁啓超たちはどうにか逃亡し、日本大使館に亡命を求めた。日本政府はこれを許可し、10月3日に軍艦大島丸に乗船。1898年10月20日、広島港経由で東京に到着する。 東京では、志賀重昂、犬養毅、柏原文太郎、高田早苗といった明治期日本の知識人に歓迎される。当時の日本の印象については、次のように語っている。 日本に亡命した時、上昇している新しい国を実際に見て、まるで明け方の風を呼吸するようで、頭も体もすっきりして気持がよかった。ここの役人から職人まで、希望を持って活躍し、勤勉進取の気風に満ちた全てが、昔から無名の小国を新世紀の文明の舞台に立ち上がらせた。腐敗している清政府を振り返ってみると、活力がなく積極性に欠けている。両国を比較し、日本人を愛すべき、慕うべきだとつくづく感じた。 梁啓超はその後、横浜中華街で生活しつつ、ときにはオーストラリアやアメリカに赴き、ときには孫文・章炳麟・ファン・ボイ・チャウといった革命家たちと交流しながら、革命のための言論活動・啓蒙活動を日本の地で展開する。 1898年12月、梁啓超は興中会横浜分会会長の馮鏡如とその弟の馮紫珊が協力して『清議報』を創設しました。創刊後、「少年中国説」「戊戌政変記」「論変法は必ず平満漢の境から始まる」「戊戌六君子伝」などの文章を続々と掲載し。横浜で麦孟華(中国語版)と会社を立ち上げて雑誌『清議報』を創刊、変法自強とともに清国民の意識改革を説いた。また、中華学校の開校にも尽力しており、同年には同地に大同学校(現在の横浜山手中華学校)、さらに翌年には神戸中華同文学校の開校にも携わっている。1902年には『新民叢報』(〜1907年)と月刊誌『新小説』といった諸雑誌をあいついで創刊。1904年に東京市で出版した『飲冰室文集類編』上下巻は、新民叢報・正論・国風報に亡命中に寄せた論説を纏めたものである。上巻の『変法通議』では「学校の立は科挙変ずるに有り」と述べ、人材育成の為に師範学校及び女学校の設立に言及し「改造は教育より」と断じた。また同書の『新民説』では、自由を尊び自治・独立を理解する新民が賢君良相を生み、内治と外交が急務であると論じている。 亡命時期の梁啓超は、日本の思潮、文化を積極的に受容する。日本語をある程度読みこなせるようになると、日本語を通じて西欧の思想を積極的に吸収し、それを著作に反映させていった。同朋の中国人に対しても、清では西洋の翻訳は軍事技術のものばかりであるため、日本での翻訳書や日本人が書いた政治経済に関する著作を学ぶことを薦めた。たとえば、上に挙げた雑誌に断続的に掲載された梁啓超の代表作の一つ「自由書」にはヘンリー・バックルや福澤諭吉、徳富蘇峰の影響が、「新民説」には福沢の『文明論之概略』やブルンチュリ(英語版)の国家有機体説の影響がうかがえる。彼は明治期の日本を通じて、清末の青年たちに向けて中国以外の思想やものの考え方を分かりやすい言葉(新民体)で発信し続けた。1901年5月11日には雑誌『清議報』に「過度時代論」などを発表するなど、この頃はスペンサーの社会進化論にもとづいた論文を発表している。また、当時のペンネームとして、吉田松陰に因んで「吉田晋」を名乗ることもあった。 亡命時期の梁啓超は、思想変遷を頻繁に起こすことでも知られる。とりわけ革命思想の急進化が著しかった。1898年、日本に来たばかりに、梁啓超は宮崎で紹介され、早稲田大学で孫文・陳少白と会談した。これは孫文と梁啓超が初めて知り合ったため、双方は自分の意見を述べて、両党の協力を討論した。もともと康有為に付いて立憲君主制政治を称揚していたにもかかわらず、大統領制をもつ共和国「大中華民主国」を構想してもいる。急進化の原因としては、宮崎滔天によって変法派と革命派の合作が図られていた(ただし結果的に失敗)ということ、1900年の義和団の乱における清朝首脳の定見のなさを目の当たりにしたこと、唐才常の自立軍運動を巡って康有為との間に確執が生じたこと、などが原因だった。しかし康有為の厳しい叱責を受けた後は、その過激さは影を潜め開明専制君主による政治改革を主張するようになる。すなわち1905年、中国同盟会の機関誌『民報』が発刊されると「清朝打倒の武力革命は暴動と外国帝国主義の干渉を招いて国を滅ぼすものであり、いまはむしろ開明専制を行うべきだ」と主張して、革命派と対立した。このような思想変遷の激しさに関しては、彼自身が後年反省しているところでもある。 1903年までは「新民説」に代表される、西欧と日本を鏡とした理念的な近代化の議論が多かった。 1905年からは、革命派の影響を受けて「開明専制論」で国家の指導と統一を重視して議会政治が中国では不可能であることを強調した。 1908年からは、またそれを逆転させて清朝の国会開設を全面的に支持。 1910年ごろには、清朝に失望し、初めて激しい批判を投げかけるようになる。 しかし、そこで一貫していた基本理念は、中華民族は四大文明の一つを築いた誇り高き民族であるという理念、民族を復興させるには近代的な国民国家の建設が必要だという理念、すなわち帝国主義時代を生き抜くためのナショナリズムであった。
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日本への亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 18:54 UTC 版)
日本への亡命後、生活のため史明は東京の池袋に、餃子、焼売、うどんなどを売る料理店『新珍味』を開いた。日本では「台湾青年社」の王育徳と接触し、その才能を認めるが、両者の方向性は一致せず、史明は台湾青年社に短期間とどまったのち離れている。1967年4月に彼が率いる「台湾独立連合会」が東京に成立、「台湾民主独立会」、「台湾自由独立党」、「台湾共和党」、「台湾独立戦線」および「台湾公会」がこれに参加した。しかしながら直後の同年6月、「台湾青年独立連盟」と「台湾独立総連盟」との協調を獲得できなかったため、組織の解散が宣告された。 この組織が解散したあと、直ちに比較的左派に傾いた新たな「独立台湾会」を組織。メンバーは70人程度であった。この組織は「主戦場は島内にあり」を規範とし、積極的に台湾島内の地下工作と大衆運動に携わった。この会の関与した台湾独立の訴訟事件は少なくとも1967年の顔尹謨によるもの、1974年の鄭評によるもの、1983年の盧修一によるもの、および1991年の陳正然によるものがある。この組織は同時に「独立台湾」という刊行物を出版し、その冒頭でははっきりと「台湾人民解放革命陣線機関誌」と記した。
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日本への亡命
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「アルテミオ・リカルテ」の記事における「日本への亡命」の解説
香港滞在中、リカルテはフィリピン革命評議会(Consejo Revolucionario de Filipinas)を設立、密かに革命再起を狙った。リカルテの名はフィリピンで反乱が起きるたびにささやかれた。当時、リカルトが親交を持っていた日本人は宇佐穏来彦だけであった。1912年2月のインタビューでは「私は日本を同胞として評価している。日本は東洋の尊厳をロシアに勝利したことで高めた唯一の国である。日本こそ我々の独立闘争に援助を差し伸べることのできる国である。」と語っている。 1914年に第一次世界大戦が始まると英国はインド人をヨーロッパ戦線に送ったが、反抗するインド人も多かった。その風潮を足がかりに独立運動の動きも起こったため、香港でもアジア民族主義者への取り締まりが厳しくなり、リカルテのフィリピン革命評議会は解散、さらに本人もインド独立運動教唆罪でイギリス政庁から香港退去を命じられ、身柄は上海のアメリカ官憲の手に渡った。 アゲタ夫人は監獄の中国人守衛を買収してリカルテを脱獄させ、ふたりは日本郵船で日本に亡命する。門司に着いた彼らは石炭船で神戸まで密航、名古屋を経由して愛知県瀬戸町に住む。日本政府は非公式にリカルテの亡命を認め、米国政府からのリカルテのフィリピン送還要求を断った。 リカルテの生活は困窮を極めた。日本に亡命していたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース、犬養毅、頭山満らの助力で東京に移住、黒龍会の内田良平の世話で世田谷に住まいを持ち、1920年から黒龍会が発行していた英文雑誌Asian Reviewの編集記者として月50円の収入を得た。リカルテは教育者として、東京世田谷池ノ上の海外植民学校でスペイン語を教えた。 横浜山下町149に移ってまもなく、関東大震災が発生、リカルテは九死に一生を得た。教師の仕事をしながら、喫茶店「Karihan Luvimin」を開いた。レストランの名前は、日本に訪れたフィリピン人が、日本にもフィリピン人が住んでいることを知らせるためだったという。彼の家には在日フィリピン人や旅行者の訪問がたえることはなかった。1927年、リカルテは"スペイン・フィリピン戦争(Hispano-Philippine Revolution)"を出版、アゲタ夫人が販売して家計のたしにしたが、この本はフィリピン人旅行者によく売れた。 リカルテは、政治的発言を控えていたが、日本に滞在中もフィリピン独立の夢を忘れたことはなかった。山下公園のベンチで南方の一点を見つめて過ごすことが多かったという。毎年、リザール・デーとボニファシオ・デーを、フィリピン人や日本人関係者を招いて祝った。
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