急進化
急進化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 03:27 UTC 版)
「サレカット・イスラム」の記事における「急進化」の解説
勢力を拡大しつつあったSIだが、その実態は「地方SI支部の寄り合い所帯」にすぎなかった。中央SIから地方支部への統制はかならずしも及んでおらず、地方では中央SIの規約からの逸脱がみられた。 その中でも、労働組合運動で頭角を現した青年活動家スマウンによって牽引されるSIスマラン支部は急進的だった。当時のスマランは新興工業都市であり、各種組織による労働組合運動が盛んだった。このスマランでは、1914年5月、東インド在住のオランダ人、欧亜混血児らによって、東インド社会民主主義同盟(ISDV) という共産主義政党が結成された。後のインドネシア共産党 (PKI) の前身である。SIスラマン支部に属する17歳のスマウンが、このISDVのオランダ人活動家ヘンドリクス・ヨセフ・フランシス・スネーフリートを慕い、彼の勧めによってISDVに加入したのは1915年のことである。SI会員がISDVにも加入する「二重党籍」となったわけだが、当時、複数の政治組織に加入する例は珍しくはなかった。スネーフリートの戦略は、既存の他組織に党員を参加させ、その組織内で共産主義者の影響力を高め、組織全体をISDVの影響下に置くことであったが、ムスリムでないスネーフリートはSIに加入できないため、スマウンを通して、SIスマラン支部を「赤化」することに成功したのである。 こうした地方支部における急進派の影響を受けて、1917年10月に開かれたSIの第2回大会では、反植民地主義を掲げて、自治権の獲得を謳う綱領が採択された。また、この綱領では植民地支配の根拠となっている資本主義を敢えて「罪深い資本主義」と呼び、これを非難しつつも、民族ブルジョワジーをその非難の対象から外し、彼らの支持を失わないよう努めた。綱領の文言は激しい調子で彩られていたが、闘争の基本路線としては合法的活動であるべきという姿勢を放棄したわけではなかった。 1918年5月には東インドに植民地議会 (Volksraad) が開設され、SIからは総督任命議員としてチョクロアミノトが選ばれ、またSI副議長アブドゥル・ムイスも選出議員として議席を得た。チョクロアミノトらは、この植民地議会での活動を足がかりに、植民地政府に対して「原住民」の地位向上と住民自治の拡大をもとめていこうとしたが、SI内の急進派は、そうした中央SI首脳の活動を微温的であるとして満足しなかった。 1918年9月、10月に開かれた第3回大会では、ISDVにも在籍するSIスマラン支部のスマウンがSI中央運営委員会委員、ダルソノが宣伝局員、そしてアリミンも中央SI指導部入りし、従来のSIの微温的な活動方針を転換し、より過激な方針を取るよう、指導部を突き上げた。これを受けてチョクロアミノトは同年11月、植民地議会に対して、遅くとも1921年末までに、住民の選挙によって公正に選出された立法院、その議会に責任を持つ政府を作れとの動議を提出、植民地政府に対する要求をさらに先鋭化させていくことになった。 急進化するSIに対して植民地政府は警戒感を強めた。1919年6月、7月に相次いでセレベスのトリトリ、西ジャワのガルットで暴動が発生すると、それらの暴動とSIを関連づけ、従来の穏健な対応を改め、SIの弾圧に乗り出した。その結果、SIからは会員の脱退がすすみ、その会員数を激減させた。
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