ヴァレンヌ逃亡事件と憲法制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 07:05 UTC 版)
「憲法制定国民議会」の記事における「ヴァレンヌ逃亡事件と憲法制定」の解説
6月末にフランス国王一家がフランスとオーストリア領ネーデルラントの国境付近への逃亡を図る事件(ヴァレンヌ逃亡事件)が起こり、議会はその対応に追われることになった。革命の急進化を恐れた当時の議会多数派はこれを国王の誘拐事件であると偽ったが、このことが民衆の反発を招き、大規模な反ブルボン家・反議会運動がパリで引き起こされた。これに対して政府は武力鎮圧の挙にでて事態が収拾された。この対応をめぐり、早期に革命を収拾しようとする勢力(フイヤン派)と、より急進的な勢力へと内部での分裂が深化する。こうした中、9月3日にフランス初の憲法(1791年憲法)が可決された。この憲法はまもなく国王ルイ16世によって承認され、9月末に議会は解散された。フイヤン派にとっては、このことは革命の終了を意味していたが、革命はこれからさらに急進化していくことになる。
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