ヴァレンヌ事件
(ヴァレンヌ逃亡事件 から転送)
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ヴァレンヌ事件(ヴァレンヌじけん、仏: La fuite à Varennes)またはヴァレンヌ国王一家逃亡事件、ヴァレンヌ逃亡、ヴァレンヌ逃亡事件[1]とは、フランス革命時の1791年6月20日夜に、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家がオーストリアへの逃亡を図り、東部国境に近いヴァレンヌで発見されパリへと戻された事件[2]。西洋史学者の山上正太郎はこれについて「王権の反革命性を暴露した自滅行為であり、国民の王家への不信や共和主義を高める結果となった」と述べている[3]。
山上が言うには、国王一家はフランス内外の反革命勢力の計画に従っていた[3]。一家の予定は、パリを脱出して北東国境付近に待機中の国王軍から庇護を受け、オーストリアに依存しつつ反革命を行うことだった[3]。6月20日深夜、変装した一行は大型馬車で王宮を脱出したが、失敗と油断が重なりヴァレンヌで捕らわれ、25日にパリへ送還された[3]。
背景

民衆
当時、ジュネーヴやオランダでも革命が起き、それらはプロイセンといった外国軍によって鎮圧され、亡命者はフランスにも流れ込んでいた。これによりフランス国民は革命の思想と情熱を知るとともに、革命を起こせば外国軍が介入して弾圧してくるであろうことを認識する[4]。
治安維持にあたるべき当局への信頼が大きく揺らいでいたため、この時期の民衆には、しかるべき当局にかわって住民自身が処罰に乗り出すという面が生まれていた[5]。ただし1793年までの民衆による蜂起は、おおむね一定の秩序を保っている。パンを求めてパン屋に押しかける時は単に略奪するのではなく正当だと思う金額を置いて行く、土地を求めて国有財産の競売場に押しかける時も正当な価格で共同購入する、といった行動がそれにあたる[6]。
全国三部会の開催によって、民衆は国王が常に善意で自分たちを気にかけてくれていると喜んだ一方で、それにもかかわらず自分たちの生活が苦しいのは王を取り巻く貴族たちが、庶民の実態が王に伝わらないようにしているからだという考えを強くした。これに浮浪者や野盗に対する恐怖が結びついたものを「アリストクラート(貴族)の陰謀」という[7]。
事件の舞台となるヴァレンヌの町は全国三部会における、町の選挙と第二段階の地域選挙、両方の開催地であり、その結果、元弁護士の自分たちの町長を初めは代理の代表として、その後正式の代表として選んでいた。バスチーユ襲撃の知らせを受けて、町を挙げての大がかりな祝典も開催され[8]、やがて彼ら自身の町議会と地域議会を選出し、新法を日々施行することに直接参加するよう求められ、国民議会と定期的に通信するようになる[9]。1789年8月にはアンシャン・レジーム崩壊後の無秩序の脅威と反革命の可能性に立ち向かうため、町は最初の民兵隊を作った[10]。ヴァレンヌの国民衛兵は全国連盟祭(英語版)に参加しており、この町の人は憲法友の会(後のジャコバン・クラブ)の地域支部創設にも助力した[11]。
1791年6月までに、ヴァレンヌではアリストクラートの陰謀によって三度にわたりパニックが起こっていた。それ自体は後に根も葉もないものと判明したが、援助を求める町の訴えによって、県当局は防衛のための銃と弾丸、四門の小型大砲も提供するにいたった[12]。
さらに、ヴァレンヌや近隣の町々に駐屯する大勢の国王軍は悪名高かった。若い軍人たちは飲み騒いだり地元の女性といちゃついたりしがちで、地元住民は食事と宿を見返りなしで兵士に提供することをしばしば期待された。個々の村における軍隊の宿営は、ときに共同体から税金を取り立てる役目も担っていた[13]。やがてナンシー事件で弾圧に関わったブイエ将軍が歩兵隊を送り込んできたことによって激しい緊張がもたらされた。その歩兵隊はやがて撤収したが、6月初めにブイエ将軍はドイツ語を話す軽騎兵からなる別の一団を派遣すると宣言した。多くの市民たちは、伝令や軍用物資を積んだ荷車が無数に町を通過し、その地域一帯で兵士たちが行軍しているという噂を聞いて猜疑心を募らせた。軍人たちが話していた「宝物」とは国王本人のことであり、不特定の悪人たちがパリから近々誘拐することになっているのではとの憶測もなされていた[14]。
国民議会
元々、国民議会の議員たちは1789年5月5日、全国三部会のためヴェルサイユ宮殿に召集された人々だった[15]。当時のフランスは、アメリカ独立戦争に参戦したのが直接のきっかけとなり、元から大きかった財政赤字がさらに拡大していた。国庫の破産をおそれた金融業者は1786年、これ以上の国庫の借入には応じないことを宣言する。これによって、ただちに財政改革に着手しなくては国家が潰れる危機に立たされていた[16]。全国三部会はそういった改革の一環だったが、議員たちがどんどん表舞台に出て行ったのは、民衆の蜂起や騒乱を受けて地方行政の重役たちが姿を消すといった事態になっていたため、政治機関として実質的に機能しているとともに政治を主導する正統性を持っているのが、良かれ悪しかれ国民議会しかいなかったからだった[17]。
アンシャン・レジーム下において、共和制は否定的に捉えられていた。モンテスキューもルソーも、共和制はフランスのような大国には向かないとしており、アメリカという共和国のモデルが紹介されてからも、それは新しい国だから可能なのであって、フランスのように中世以来の伝統やしがらみのある国には適用できないと考える者がいた[18]。当時彼らが作ろうとしていたのは立憲君主制の国だった[19]。
また議員たちは、国王から武力で解散させられそうになったところをバスティーユ襲撃によって生き延びるなど、民衆が蜂起したおかげで助かった局面があることは認めつつも、もし民衆の暴力が自分たちに向かうようになったらという不安を絶えず抱いていた[20]。
王権
全国三部会が開催された頃、議員たちは、まだ革命など考えていなかったにせよ漠然となんらかの政治改革を期待しており[21]、それぞれの選挙区から陳情書も託されていた[22]。しかし国王と財務大臣ネッケルは、全国三部会の議題を財政赤字の解消のみに限る意志を示した。王権側と議員たちの間の落差は最初から大きかった[21]。
1780年代後半、原則として臣民のために最善を願っていた国王は、どうしたらその目標を達成できるのかについてはあやふやなまま引き裂かれていた。狩猟に費やす時間が年々長くなり、元々無口だったのが更に黙すようになっていた。この時期は王妃の影響力がしだいに高まっていった時期でもある。改革を目指すテュルゴーを1775年に失脚させ、ネッケルの最初の財務長官時代を1781年に終わらせる上で、王妃も宮廷の陰謀に関与している。王妃の兄ヨーゼフ2世は妹が政治に干渉することをよく思わなかったが、オーストリア大使メルシー伯爵はむしろ煽り、国際政治の仕組みに開眼させようとしていた[23]。

議員の一人であるミラボーは、1789年末頃から民衆の暴力を嫌って革命の終結を図るようになり、審議中の憲法においては立憲君主制のもとでできるだけ国王の権限を強化する方向で活動するとともに、国王にもひそかに接触を求めた。国王もミラボーを受け入れたが、彼は1791年4月2日に病死する。隠れた協力者を失った国王は政治的決定に対し、革命と妥協する意思はない王妃の影響をこれまで以上に受けるようになった[24]。なお、この頃には既に王妃はミラボーを信用していなかった[25]。
逃亡を決意したきっかけははっきりとはわかっていないが、聖職者を公務員と扱う聖職者民事基本法の他[26]、4月18日に復活祭を祝うためサン=クルー城に向かおうとした国王一家が、テュイルリー宮殿を出たところに集まっていた群衆に阻止されるという事件もきっかけになったとされる。人々は、聖職者基本法に対し宣誓した聖職者(宣誓聖職者)が行う復活祭のミサを嫌って国王がパリを離れ、サン=クルー宣誓を拒否する聖職者(宣誓拒否聖職者)が行うミサに与ろうとしているのだと疑ったのだった。この時、出勤していた国民衛兵も指揮官ラファイエットの命令を無視して群衆に加担している。結局、国王一家はサン=クルー行きを諦め、馬車を降りて徒歩で宮殿に戻った。この事件によって国王を取り巻く貴族・聖職者は制限および追放されている[27]。
国王は、少数の狂信的な革命家であるジャコバン派[28]がパリのならずものたちを煽動し支配することによって、フランス革命による数々のおそろしい変化がもたらされたと考えていた[29]。一方、王妃はウィーンにいる兄弟やオーストリア人の腹心への手紙で、自分と家族は反逆者の暴徒たち、もしくは御しがたい臣下たちの虜囚のようなものであると訴えた。彼らが貴族や王族とさえ平等であると言い張ることは思い上がりであるとし、1790年6月メルシー伯爵に宛てた手紙では「そのような怪物ども(革命家)は日に日に横柄さを募らせています。私はすっかり絶望しています」「ルイは、私たちを苦しめている悪を、いかなる犠牲を払おうとも放逐しないのであれば、自分自身に対して、臣民に対して、そして全ヨーロッパに対して、義務を怠ることになりましょう」と書いている[30]。
1790年7月14日、全国連盟祭(英語版)が開催された。1年前のバスティーユ襲撃を記念したこの祭典には、様々な地方から4万4千人もの代表者たちが出席している。会場はシャン・ド・マルスで、有志の者たちが地ならしを行った。ルイ16世、タレーラン、ラファイエットが30万人のパリ市民を前に新たな秩序を宣言した。国王は「国家の基本法によって自らに与えられた権力を使用し、国民議会が決議して自分自身も受諾する憲法を守り、また法律を施行すること」を誓った[31]。
計画
計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。彼女は実家であるオーストリアへ亡命することを企てていた。当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。王妃はメルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した暁には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていたようである[32][注 1]。しかし当のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならないとした。このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」[33][注 2]を作成して、成功したら発表する予定であった。これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。逃走の資金は銀行家から借金することになった。
国王夫妻によって実行された計画は、その9ヶ月ほど前、パミエ司祭(フランス語版)とブルトゥイユ男爵(英語版)によって立案された。その案では、計画の目的はパリから離れた安全な場所(ランブイエやルアン)に移すだけでなく、国王が外国の軍隊の支援を得られる、あるいは少なくとも外国の軍隊の支援をもたらせる国境まで、国王を逃亡させるものだった。これによって、国王が首都パリ、パリのジャコバン派、国民議会の急進派から離れるや、大挙して彼に従う民衆を見出す。国王を支持するために国中から集結するであろうフランス人が国王に新たな立場を作り、それによって国王は憲法全体を見直すよう交渉し、革命を終わらすことが期待されていた。1790年10月下旬までには、国王はその計画について、少なくとも緊急時対応策として考慮することに同意している。この時からブイエ侯爵は、国境地帯に国王を迎え入れる準備を一任されていた[34]。
パリからの実際の脱出と陸路の旅は王妃とフェルセンによって計画された。1791年の冬から春、国王が逃亡案をはっきり受けいれていない時から計画は練られた。国王も主要な決定については相談を受けていたが、しだいに王の権威を王妃に譲り渡すようになっていた[35]。
しかし、王妃が取り組んでいた外国政府との長期にわたる交渉は思ったようにはいかなかった。近隣諸国の君主たちは、国王一家の苦境に同情はしたものの、他の列強も同意しないかぎり関わり合いになることには慎重だった。特にヨーゼフ2世崩御の後に皇帝を継いだレオポルト2世は用心深く、妹である王妃をとくに失望させた。1791年6月、ようやく資金と軍隊を全面的に援助すると約束したが、支援を提供できるのは国王が脱出し独自に行動できる立場を得た後のみだと皇帝は特記した[36]。
当初の計画では、ブイエ将軍もフェルセンとともに、国境にできるだけ早く行けるよう別々の集団に別れ、小型の目立たない馬車で旅するようにと国王一家に促していた。この方針に従うことになるのが王弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)で、彼は滞りなくブリュッセルに亡命する。しかし国王夫妻は、別々に旅することや子どもたちや王妹エリザベートと別行動をとることは頑として拒んだ。やがて夫妻は、案内人兼困ったときの世話役としてダグー侯爵を、護衛役として御者に扮した3人の貴族を加え、一行は総勢11名に膨れ上がり、もはや一台の馬車に収容するのは無理だった[37]。フェルセンは旅券を準備し、3ヶ月の月日と6000リーヴル近くの費用をかけて特別仕立ての馬車を作らせた。この馬車は革とタフタの内装、詰め物入りの座席、いくつもの作り付けの荷物入れ、ピクニック用品、瓶の収納棚、革で覆われたおまるを完備し、2人の乳母を運ぶために小さい二輪馬車のカブリオレも用意された[38]。
王妃と数人の腹心の侍女たちは、王太子に着せる小さい女の子用のドレスや国王に着せる会計係の服といった変装を考案することに取り組んでいた。国王はこの服以外には赤と金と礼服のみ持っていき、国境で軍隊の指揮をとるとき身につけるつもりだった。一方、王妃は手持ちのすべての衣装やダイヤモンドと宝飾品のほとんど、いくつかの家具、化粧品すべてが揃っている特別仕立ての化粧箱を事前にひそかに持ち出した。この時、化粧箱の製作と輸送が発覚し、小間使いの1人の疑惑をかき立ててしまう。この女性は愛国派であり、国民衛兵将校の愛人でもあった。結局、国王一家はこの女性の非番の日に当たるよう逃亡を1日延ばした[39]。
革命家たちを油断させるため、1791年前半とりわけ4月18日以降、国王夫妻は意識して欺瞞戦略をとっていた。諸外国の指導者たちへの密書ではことあるごとにフランス革命を非難していたが、夫妻は愛国派の機嫌をとり自分たちが議会を支持していると思わせるため全力を尽くした。4月19日、国王は自ら国民議会に出向き憲法を受諾すると繰り返し、4日後に同様の公言をすべての大使に伝えた。夫妻は立憲派聖職者による復活祭のミサにも参加している[40]。
ブイエ将軍は国王が退避できる守りの強固な場所を選ぶにあたり最終的に、彼の直接の指揮下にあった小さな要塞町モンメディを推した。国王たちの逃亡経路に関しては、ブイエ将軍はランスを通る最短路を提案している。貧しく人がまばらにしか住んでいない田舎を通る道なので、急進派の拠点をほぼ避けることができるルートだったが、ランスで戴冠式をした国王が地元の革命家たちに見破られるのではと恐れたため別のルートで行くことになった。ブイエ将軍は君主政主義者であり軍の技術者兼地図製作者のゴグラに、逃亡の道のりについて実地調査も依頼した。ゴグラは、町は安全そのものであると判断した。ブイエ将軍はヴァレンヌから15マイルほど先でモンメディの南からもほぼ等距離にあるダン近くの最後の中継地点で、馬や大勢の護衛とともに待機することになった[41]。
計画立案者たちは、パリを離れた後はできるかぎり早く国王に護衛をつけたいと願っていた。しかし首都からあまりに近いところに軍隊を派遣するのは危険であり、さらに軍による護衛を早くから配置すると、国王の馬車に現実的に人目を惹きつけかねない。最終的に国王夫妻の同意のもと、一家が到着する数時間前に比較的わずかな数の騎兵を派遣することが決まった。最初の護衛隊をソム=ヴェルの宿駅に配置することが決まった際、ブイエ将軍はショワズール公爵(フランス語版)を指揮官に選んだ。その忠誠心と家柄から選ばれたのだが、王妃とフェルセンは軽佻浮薄という彼の評判を警戒し、人選を改めるよう訴えていた[42]。
土壇場になって、国王一家は逃亡の一行からダグー侯爵を外し、王室養育係のトゥルゼル夫人(英語版)を入れた。ブイエ将軍は、かくも大胆な計画をやり抜くに足る決断力とゆるぎなさを奮い起こすのは国王には絶対に無理であって、共謀者たちが無防備で無力なまま反逆罪で逮捕されてもかまうことなく、瀬戸際で手を引くのではあるまいかと懸念しはじめた。これは国王が出発日を何度も延期したことで更に強くなっていった。初めは1791年5月下旬だった計画はどんどん先延ばしにされて6月19日になっていた。そして、国王一家が出発日をまた変更し20日にしたことをブイエ将軍が知ったのは6月15日だった。このときまでには、ブイエ将軍はすべての指令を出しており、彼の部隊は定められた位置へと動きつつあった[43]。
王妃とブイエ将軍は、逃亡が成功すれば内乱が起こるだろうと考えており、逃亡後の国王は身の安全のためオーストリア領内にすぐ引く必要があると予測したためこれに従うよう国王を説得する計画も立てていた[44]が、国王は、地方に出てしまえば住民は穏和で王に忠実だと思い込んでいた[45]。
メルシー伯爵は逃亡がいかなる結果を招くことになるのか、逃亡が失敗したら何が起こることになるのか、熟慮するようにと王妃に懇願した。国王と王妃はフランス革命に対する民衆の支持の大きさをあまりに低く見積もりすぎている、と彼は主張する。「この時点で逃亡するなどもはや不可能です。どの村も越えられない壁となってあなた方の行く手を遮るでしょう。そして私は、この企てが失敗すればいかなる惨禍が生じるかと考えると恐ろしくなります」。彼は、王家にとってはるかに得策なのは、嵐が過ぎるのをじっと待つことですと説いた。「あなた方が今いる所にただ居座ってさえいれば、革命家たちの狂った創造物は自滅していくであろうと、遅かれ早かれ確信が持てるはずです」反対に「(逃亡という)極端な解決策」を選べば、「国王と王権の運命が、善かれ悪しかれ、かならずや決定されることになるでしょう」[44]。
実行と失敗

逃亡開始
1791年6月20日の午後3時頃、ショワズール公爵が中継宿駅へと馬車で発った。彼はそこで国王の護衛のために派遣された先遣隊の騎兵たちと合流することになっていた。ショワズール公爵が出発する少し前、きちんとした髪結い師がいなければモンメディでの生活の厳しさに耐えることなどできまいと王妃が考えたため、世間ではムッシュ・レオナールとして知られていた王妃の髪結い師ジャン=フランソワ・オチエが急遽この計画に加わった。王妃に呼び出された彼は、自分の頼みをなんでも聞くかと尋ねられ、仰せのままにと答えたところ、ショワズールとともにここを去り彼の命令に逐一従うようにと告げられ、行く先もわからず混乱したまま旅立っていった[46]。
国王一家は10時半頃から動き始めた[47]。変装した彼らは一度にひとりずつ宮殿を出て行き[48]、最後が王妃だった。彼女が宮殿を出ようとした時、ラファイエットと鉢合わせしそうになったが、自分のまわりにさしかけられた松明で目を眩まされ、他の問題に終われてもいたラファイエットは王妃に気づかなかった。王妃が馬車に乗り込んだ頃には0時半頃になっており、この時点で予定より1時間遅れた[49]。
一行が馬車に身を落ち着けているあいだ、フェルセンは3人の従者の一人マルダンを馬車の後ろに従僕として立たせ、馬車をゆっくり進めた。パリを出た頃には予定より2時間遅れていた。ボンディではこれも3人の従者の一人ヴァロリが替え馬とともに待っており、ここでフェルセンは一行から離れた。彼はネーデルランドに入り、フランスとの国境をなぞるように進みモンメディで国王一家と再会するつもりだった。次の中継地点クレイで2人の乳母を乗せたカブリオレとも落ち合い、ここで一行全員が揃った[50]。
目立つ一行だった。黄色い枠のついた黒塗りの大型ベルリン馬車に、明るい黄色の上着を着た3人の従者は、通過する先々で人々の目を惹いた。黄色い上着を選んだのは従者の一人ムスチエだった。裕福な旅人が豪華な乗り物に乗って通るのはこれが初めてではなかったが、地域の人に憎まれ当時は既に亡命していた反革命の指導者コンデ公のお仕合わせと3人の黄色い上着はよく似ていた[51]。
ムスチエによれば、車内での国王一行は狩人やつつましい旅人がするように手づかみで楽しいピクニックの朝食を食べていた。彼らは宮殿を抜け出した時の体験談を語り合い、国王は地図と前もって準備していた旅程表を取り出し、村や駅を通過するごとにその名前を告げた。王妃は、逃亡が発覚したからには、ラファイエットはさぞかし困惑し身もだえしていることでしょうと述べた。そしてプチ・トリアノン宮殿で宮廷人に対してそうしていたように、演じるべき役割をみなに振り分けた[52]。
だが、一行はすぐに正体がばれないよう身構えている辛さにうんざりした。暑くなるにつれて彼らは日よけを降ろし、帽子やヴェールを脱ぎ、農夫たちが田野で働いているのを眺めた。農夫たちも見返して、あの一行はどこの裕福な貴族だろうといぶかしんだ。更に後になると国王は宿駅で馬車から降りるようになり、足を止めてまわりに集まってきた人と雑談した。従者と乳母たちは、初めは国王の無頓着さを心配し、休憩地点のひとつではムスチエが田舎の人々の群れから彼を遮ろうとした。だが国王は「心配するには及ばない。そのように用心する必要があるとはもはや思えぬ。この旅にはいまや不安なところなど何もないように見える」と告げた。結局、王家の人々は自覚をもって行動しているのだから、自分たちが心配する必要はないという結論が下された。そしてこの時、国王は正体を見抜かれていた。その中の一人である宿駅長の娘婿は、全国連盟祭に参加していたので国王を見たことがあったのだった[53]。
国王は詳細な旅程表を携えていたので、3時間の遅れが出ていることに気づいてはいたが、シャロンを出てロレーヌの境を目指し始めると一行は、最後の難関を越えたと思い楽観的になった。しかしショワズール公爵と騎兵隊がいるはずのソム=ヴェルの宿駅が見えたとき、そこに騎兵隊の姿は見えなかった。ヴァロリが尋ねたところ、騎兵隊は地元の農民たちに威嚇され1時間前に去ったことが判明した。一行はショワズール公爵が人気のない場所まで退いたのだろうと考えたが、次の宿駅に着いても彼と兵士の姿は見当たらなかった[54]。
逃亡失敗
国王の逃亡に先立つ数日の間、土壇場で予定が変更されたにもかかわらず、初めはきわめて順調に進んでいた。フェルセンと国王一家がパリからの脱出を開始した頃、ブイエ将軍は国王の受け入れを準備するため、次元に取り決めていた一連の軍隊の動きをすべて始動させていた。彼の末息子と一人の将校が、一群の替え馬とともにヴァレンヌに前もって派遣され、そこで既に駐屯していた40名ほどのドイツ兵部隊と合流していた[55]。6月21日の正午頃にはゴグラが、宿駅で待機していたショワズール公爵と髪結い師レオナールと合流をはたした[56]。
しかし、この光景を見た市民らが抱いた、ナンシー事件の弾圧に派遣されたブイエ将軍や貴族将校たちに対する不安の念は強かった。街の指導者たちは、国境警備の軍隊への給金としてパリから輸送されてくる金の警備のため軍が派遣された、と間際になって知らされたが、それによって恐怖が静められることはなかった。彼らは大勢の騎兵を見て戦争が勃発しそうなのだろうかと疑った。国境地帯において、これは重大な問題だった。また、兵士たちの多くもこの奇妙な任務を自分でもいぶかしく思っており、ついに国民衛兵の隊員たちは武装して未確認の惨禍に備えはじめた[57]。
その間、ソム=ヴェルでは騒動が繰り広げられていた。フランス革命が始まった後のフランスにあるきわめて多くの農村地帯がそうであったように、ここの農民たちは領主地代を納めることに頑として抵抗していた。軽騎兵が到着した時、この兵らは農民の金銭や穀物を収奪しに来たのだと共同体全体にパニックが広がった。人々が熊手や鎌を携えて集まってきて兵士たちを威嚇した。午後の半ば、旅人たちから騒乱が起こっていると聞いて、シャロンから国民衛兵の代表団が調査しにやってきたショワズール公爵たちは金の警護の話をして説得を試み、国民衛兵は帰ったが、農民たちは納得せず脅しを続けた[58]。
同時にショワズール公爵は、国王の到着がひどく遅れていることに不安を募らせていた。ゴグラの計算によれば、国王一行は2時までには到着しているはずだった。フェルセンもブイエ将軍への手紙のなかで、国王は2時半までにはソム=ヴェルに着くだろうと請け負い「そのことについては、まず確かです」とも書いていた[58]。ショワズール公爵は国王がパリを出られなかったのではと心配し、ここまでやってきたにせよ宿駅のこの状態は王の旅路を妨げるだろうと怖れ、ブイエ将軍の本営まで一気に退却することに決めた。彼は自分の先で待機している他の騎兵分遣隊に「宝物は本日到着しそうにない。私は離脱しブイエ将軍とふたたび合流する。諸君は明日新しい指令を受け取ることになろう」と伝言し、レオナールを伝令役に任じた[58]。レオナールは任務を完璧にこなし、伝言は各地を通過していった[59]。
ショワズール公爵の姿がなかったため、国王一行は宿駅でヴァロリと馬丁たちが準備していた替え馬を見つけ、馬替えを行った。騎兵隊はいたが、兵士たちは馬から降りて武装を解きくつろいでいた。王妃は何が起きているのか知りたがり、ドイツ人騎兵隊の将校を呼び寄せた。将校は「計画がうまくいかなかったのです。疑惑をもたれないように、これで失礼いたします」と言い急いで去っていった[60]。

宿駅長のジャン=バチスト・ドゥルエ(英語版)は騎兵隊員に就いていたことがあった。ベルリン馬車の乗客を眺めた時、自分の連隊がヴェルサイユ近くに駐屯していた時に見た王妃の顔があったので仰天した。そして、王妃の隣に座っている男は新紙幣に印刷されているルイ16世の肖像に似ていた。馬車が走り去るのを見送った後、ドゥルエは国王が今通ったぞ、とまわりの皆に吹聴しはじめた。人々がどうするべきか迷っていると、将校が軍隊ラッパを吹き鳴らさせ、騎乗して出発の準備をせよと竜騎兵に呼びかけた。これで人々は、騎兵隊は金を警護するためではなく、逃亡中に拉致されたか、それに近いことになっている国王に付き添うために来たのだと判断した[61]。
ドゥルエは町議会に召還され、騒擾の現場に隣接する町役場で緊急会議が開かれた。街の重鎮たちは、国王がパリを離れようとしているのであれば、おそらくは外国軍を引き連れて戻り、フランスを侵略し、革命を終わらせるために国境に向かっているのだろうと考えた。彼らは国境方面の他の町々に警告を発し、王の逃亡を阻止するために行動に出た。国王を追跡してほしいと頼まれたドゥルエは友人と共にヴァレンヌ方面に向かった[62]。
9時半頃、国王一行はクレルモンの宿駅に入った。近くにとどまって待機していた指揮官が、軍隊が町にいるためにクレルモンで騒擾が拡がっていると警告し、馬車がいくぶんか先に言ったら自分もすぐ後を追うと約束した。これはブイエ将軍の命令に忠実に従うものだった[63]。
11時頃にヴァレンヌに到着したが、ブイエ将軍もショワズール公爵もそこにはいなかった。一行は、馬替えは飛ばしてこのままダンに向かうよう御者たちに頼んだが、クレルモンから来た者たちは、まず馬に食事が与えれられ休ませないかぎりヴァレンヌより先に行くなと宿駅長から厳命されていた。御者たちと言い争っている間に時間は経ち、ドゥルエたちが町に入ってきた[64]。
とうとう御者は、一行が新しい馬を探す間、ヴァレンヌの町の中央まで行くことを承諾した。そんな中、人々の叫び声や「火事だ!火事だ!」という声が聞こえてきた。トゥルゼル夫人はこの時のことを「裏切られたと思いました。そして言い尽くせない悲しみと懊悩を感じながら、私たちは通りを馬車で進んでいきました」と回想した[64]。
ヴァレンヌの町
11時頃、ヴァレンヌにある居酒屋にドゥルエ達が駆け込んで来て、「君たちは良き愛国者か」と尋ねた。その場に居合わせた居酒屋の亭主たちがその通りだと答えると、ドゥルエは国王一行を目撃したことを伝え、国民と革命のために王とその一家をはばまねばならないと言った[65]。

居酒屋の者たちが人を呼びに行き、やがて町議会議員のジャン=バチスト・ソース(フランス語版)が到着した。彼は2人の息子に火事だと叫んで残りの町民たちを起こすようにと指示した[66]。11時20分頃にはソースたちは居酒屋近くの街路に集まっていたが、ちょうどその時2台の馬車が騎馬の2人にともなわれ門の下を進んできた。国民衛兵の何人かが松明を掲げるなか、他の者たちはマスケット銃を手に、停車して馬車から降りるよう御者たちに命じた[67]。
抗議されたが、ソースは旅人たちの旅券を検分するため居酒屋に持ち込んだ。旅券に不審な点はないように見えたので、ソースと同僚の役人たちは一行を通過させようという気になったが、面目がかかっていたドゥルエは譲らず、さらに国民議会議長の署名が欠けているので旅券は有効ではないと主張した。実のところ議長の署名は法的には必要でなかったが、誰もそのことをはっきりとは知らなかったので町の重鎮たちは時間稼ぎすることに決めた。彼らは、夜分のことで書類をきちんと調べることはできないし、どのみちここから先は悪路で夜は危険だから夜が明けるのを待つほうがよいと告げ、一行をむりやり馬車を下ろしてソースの家でもてなすことにした[68]。
ソースは、地元の判事がヴェルサイユから来た女性を妻にしており、当人も何度か国王一家を見たと言っていたのを思い出した。そこで判事を一行がいる部屋に連れてきたところ、判事は部屋に入るが早いが片膝をつき打ち震えながら低頭して「ああ、陛下」と言った。誰もが驚愕する中、ソースの母親も、国王様と小さい王太子殿下にお目にかかる日が来るなんて思いもよりませんでしたとすすり泣きながら両膝をついた。変装が見破れたと悟った国王は「私はそなたたちと生きるために来たのである。わが忠実なる子らよ、私はけっしてそなたたちを見捨てたりはすまい」と語りかけ、町議員の議員たちを一人ずつ抱擁し事情を話すと、町の人々は馬を用意し、私が旅を全うできるようにすべきであると主張した。圧倒された人々は打ち負かされ、手筈を整えるため町役場に戻った[69]。
しかし、彼らは次第に考えを改めた。事件前から見ていた軍隊や宝物の話すべてが腑に落ち、国王の逃亡を阻止しようとする者たちに対する報復の可能性と、この地域に移動してきたことが知られている兵士たちからの攻撃という可能性に気がついた[70]。国民衛兵の隊長たちは分遺隊を町の主要な入り口に送り、荷馬車や丸太や鋤など手に入るものでバリケードを築かせた。また、伝令を周辺の村々に送り出し、加勢を頼むと訴えた[71]。
深夜1時頃、ショワズール公爵とゴグラがドイツ語を喋る軽騎兵たちと共にヴァレンヌの南口に現れた。彼らはバリケードを突進し、サーベルの側面を振り回して国民衛兵たちを押しのけ、町の中心に馬を乗り入れると、ソースの家の前で戦闘隊形をなして止まった。ソースが前に出て、騎兵諸君は市民としてはこよなく立派であり、兵士としてはこよなく勇敢であるので、流血しか招きえない作戦に加担することなどできるわけがないと自分にはわかっている、と声を張り上げた。両方の睨み合いが続き、やがて将校たちが国王との会見を求めた。その間、国民衛兵は四門の小型大砲を街路に引き出し、上手と下手に配置すると、まだ通りにいる町民が逃れることができるように、すべての家の主人に自分の家の扉を開けよと叫んだ。ゴグラは国民衛兵へと突進し、大砲の向きを逸らすよう命じた。だが国民衛兵の1人が拳銃を発射してゴグラを馬から撃ち落とし負傷した彼が居酒屋に運び込まれると、撃った国民衛兵は詫びながらその後をついて行き、まわりの人々を懐柔にかかった。結局、兵たちは説得されて馬を降り、彼らは町の人々を抱擁し、地元の国民衛兵に服従を誓った。軽騎兵たちの出現によって、住民たちは国王の逃亡が外国の兵士とおそらくは外国の軍隊も巻き込んでいるのだと確信した[72]。
援軍がいたるところから到着し始め、6月22日の朝までには数千人の人々がヴァレンヌに集結していた[73]。
その間、町議会では緊急会議が開かれ、国王にどう対応すべきかと苦悩していた。深夜2時頃、会議を再開した直後に、国王の存在を国民議会に知らせて助言を仰ぐために使者として理髪師親方のマンジャンが送り出された。先刻の軽騎兵たちとの一件、とりわけゴグラとソースは事件前、ヴァレンヌにブイエ将軍の軽騎兵が現れた頃にも言葉を交わしており[14]、ゴグラに嘘をつかれたと悟ってからというもの町議会議員たちから相手に協調する気は消えていた[74]。
国王がパリの雰囲気について語ったとき、それは新聞や町長からの通信をもとに町議会が理解していたこととは合致しなかった。町議会のほとんどは、国王の顧問官たちが信頼できないことや、王が影響されやすいことを聞き知っていた。国王が間違った方向に導かれていたと後に分かったら自分たちの町はどうなるのかという疑問は、国境から近いヴァレンヌのような町にとって深刻な話だった[75]。
夜が終わる頃、ソースと一部の議員は、国王のところに戻り心変わりしたことを説明した。「王の住まいはパリであり、地方に暮らす者たちですら王がそこに戻られるようひたむきにまた切実に願っているのです」。また、「王の出立によって生じる血生臭い出来事」への恐怖や「国家の救済は憲法の完成にかかっており、憲法それ自体は王の帰還にかかっている」ことを述べた。ソースの家の外では「国王万歳!国民万歳!パリへ!パリへ!」と群衆が叫んでいた[76]。
国王夫妻は理解せず、旅を続けられるよう馬と護衛を準備してほしいと求め続けた。王妃はソースの妻に、国王を援助することで町はきわめて大きい恩恵を得ることになるだろう、ご主人を説き伏せてくれまいかと言ったが、ソース夫人は、自分は国王を心から愛しているが、夫のことも愛しており、夫は責任ある立場なので、一行を通過させれば罰せられるのではないかと恐れていると返した[77]。
朝6時頃、国民議会とラファイエットが前日の朝派遣した2人の伝令、パリの国民衛兵将校バイヨンとラファイエットの副官ロムフがヴァレンヌに到着した。彼らが携えてきた命令は「公職にあるすべての者、国民衛兵ないしは前線部隊に属するすべての者」に宛てられ、「前述の公職にある者は、誘拐ならばそれを阻止し、国王一家の前進をはばみ、立法府にただちに通報するべき、ありとあらゆる必要な手段を講じる義務を負うことになる」。伝令たちが国王夫妻に法令を差し出すと、「なんと不遜な!」と王妃は嘲り法令を床に投げつけた。国王はそれほどの気力がなく「フランスには国王はもういないのだな」と言った[78]。

パリへの帰還
ショワズール公爵とゴグラが騎兵隊を率いて現れ、血路を開いて国王一家を脱出させる提案をしたが、国王は妻や子供たちが危険な目に遭うといけないとして拒否した[79]。
一行は時間をかせごうとした。考えをまとめたいのでしばらく自分たちだけにしてほしいという要求が受け入れられると、その間に口裏を合わせるための作り話を用意し、所持していた自分たちに不都合な書類を燃やした[80]。
ショワズール公爵は王妃を馬車に乗せるため手を貸し終えると、群衆の中に引きずり込まれ暴行された後に何人かの将校と共にヴェルダンの牢獄に連れて行かれた。ゴグラだけ町を抜け出したものの、数日後オーストリア国境で捕らえられている[81]。計画の失敗を聞いたブイエ将軍はストゥネに退却し、2人の息子と将校を20人ほど集めると、ネーデルランドに亡命した[82]。
ヴァレンヌを出発した時、一行は6000人ほどの国民衛兵にともなわれていたが、進んでいくにつれて田舎の人々があちこちから合流した。ムスチエによれば「数知れぬ大群には、老いも若きも男も女も、ありとあらゆる人々がいて、マスケット銃、サーベル、熊手、槍、斧、鎌で武装していた」。この帰路は丸4日続き、手を縛られてベルリン馬車の御者席に座っていたヴァロリが言うには「われわれは太陽に焼かれ、砂埃で息がつまった」[83]。多くの者は、見る日が来るとも思わなかった国王や王妃に見とれるためにやってきていた。また、国王が誘拐されたとの噂が流れていたため、国民と国王を守護するために駆けつけた者もいた。
一方、この計画で動いていたブイエ将軍とその騎兵たちを見た者は恐怖していた。国王を捕らえたかどで数千人の兵士たちがロレーヌとシャンパーニュの住民を処罰しにやって来るという噂が広まり、王を感化したとされる者に矛先が向かった。群衆は王妃を標的にすることにほとんど痛痒を覚えなかったが、何よりも3人の護衛に被害が集中し、さまざまな集団が3人を襲撃しようとしては国民衛兵に押し戻された[84]。
その日の終わりにシャロン=シュル=マルヌに到着した際には市長と県の指導者たちによって宴が催され、旧地方長官の館に宿泊場所が用意された。ここの権力者たちは一行に同情的で、その中の少数が脱出の手引きをすると申し出たがここでも家族の安全を懸念し国王が断った[85]。また、館の外では怒り狂った平民たちの集団が王のパリ行きを要求したため、翌朝には出発せざるを得なかった[86]。
夜7時頃、マルヌ川沿いで一行はパリの国民議会から派遣された3人の議員、穏健派のバルナーヴ、急進派のペティヨン(フランス語版)、ラファイエットの友人モブール(フランス語版)と合流する。王妹エリザベートは議員たちに3人の護衛を守ってほしいと懇願し、バルナーヴは慰めの言葉をかけた後、国王のパリへの安全な帰還を保障する役目にこの者たちを任ずるという旨の法令を読み上げ、更に群衆に向かって再度読んだ。議員たちにともなっていた将校デュマは国民衛兵分遺隊の指揮をとり、膨大な行列を整え始めた[87]。翌日、デュマは民衆の行列をほとんど切り離したため一時的に一行の速度は上がったが、また他の国民衛兵や見物人が押し寄せたので速度は元に戻った[88]。
この帰路で、バルナーヴは王妃と2人になった機会に取り引きを持ちかけた。自分と自分の友人たちは、君主制を温存し、国王の権威を強化するために全力を尽くすことを約束する。見返りとして求めることは、国王が憲法を受け入れ、オーストリアからフランス新政府の認知を取り付けることであると彼は言った[89]。
パリ郊外を通過している時、雰囲気は一段と攻撃的になった。ベルリン馬車への一斉襲撃が何度かあり、一行の安全を懸念したバルナーヴとペティヨンは国民衛兵たち(パリから来た国民衛兵の姿もあった)に守ってくれと叫んだ。2人の将校が重傷を負い、デュマはあやうく落馬しかけながらも、ついにラファイエットが騎兵分遺隊の大軍とともに待つパリの市門へと辿り着いた[90]。
数万人の老若男女が立ち並び、さらに数百人が木や屋根の上にしがみついていた。議員たち、行列の先頭に立っていたドゥルエとその友人、ヴァレンヌから来た国民衛兵に向けて幾分かは歓声が上がったものの、群衆はおおむね沈黙したままであり、君主を侮蔑するしるしとして帽子や縁なし帽を脱ごうとはしなかった。同じく反感を示すため、通りに並んでいた国民衛兵のいくつかの舞台がマスケット銃を逆さに構え地面に向けていた。地方では「国王万歳!」という喝采が起こっていたが、パリではそれもなかった[91]。
一行は宮殿の入り口近くで停止した。群衆のなかの人々が馬車に駆け寄り、3人の護衛につかみかかろうとしたので、デュマとペティヨンと何人かの将校たちは叩きのめされ血を流している護衛たちをなんとか安全な場所に運び出した。その間に国王一行は馬車を降り、徒歩でテュイルリー宮殿に入った[91]。
国民議会とパリ
21日の朝7時、国王一行が宮殿から消えているとわかり、召使いの多くは共謀のそしりを受けるのではないかと恐れてテュイルリー宮殿から逃げ出した。ラファイエットとパリ市長バイイが噂を信じられないまま到着した頃には、逃亡のニュースは宮殿の外を出てパリを駆け巡っていた[92]。多くの人々が宮殿に駆けつけたので、8時半までには大群衆が宮殿の各門を突破して乱入し、衛兵や脱出せずとどまった召使いを罵ったり、国王一家の肖像画や王妃の部屋のいくつかの家具が破壊された。だが、ほとんどの場合、人々はぽかんと眺めお互いに喋っただけであった。自治体役人が到着し、証拠を保全するためにその一画を封鎖する必要があると訴えると、群衆はすぐに出て行った[93]。
その頃、ラファイエットとバイイは市庁舎へと向かう途中で敵意に満ちた集団に取り囲まれていた。2人は逃亡事件に関与したと見做されたのだった。しかしラファイエットは数名の国民衛兵に伴われながら、バイイを安全な場所へと移動させた。彼は幸運だったほうで、宮殿の夜間警護を担当していた衛兵の指揮官ドーモン公爵は群衆に追い詰められ、殴られ衣服を引き裂かれていたところを民兵の部隊によって救出された[94]。
国民議会の決定
国民議会が逃亡を知ったのは21日の朝、議長が伝えるニュースによってだった。議会はすぐに常時開催状態になり、1日24時間、いつでも必要に応じて審議できるようにするとともに、国王を『アレテ』(止める、さえぎる、逮捕するなどの意味)することを命じる法令を満場一致で採択した。議会は想定外の事実に遭遇してとっさに判断がつかず、アレテという多義的な動詞を用いて、実際の措置は現場の判断に委ねたのだった[95]。
また、法令の決定に国王の裁可は不要とする決定を全員一致で行うとともに、大臣には議会に対する忠誠の誓いを求め、大蔵大臣には国王の署名なしで国庫の支出を行う権限を認め、外国の大使には、外務大臣を介して議会と直接交渉することを求めた。緊急の一時的な措置だったとはいえ、議会はこの時、国王の存在しない政体=共和国を出現させた。シャルル・ラメット(フランス語版)は「緊急の折には、国家存続のため、臨時の非合法措置をとることが認められる」としてこの決定を正当化した[96]。
国王が捕まりパリに帰還すると、128時間に及ぶ議会の常時開催状態を解消するとともに、議員間の党派的な対立も復活した。保守的な議員は、国王は法に違反してはおらず、また免責特権があるのだから、その行動の責任を問うことはできないのであり、即座に無条件で復位させるべきと主張した、一方、革命派の議員は、国王の裁判を要求した。議員の多数は両者の中間の位置を取り、国王の責任は議会で決定されるものとした。国王の行為は容認できないものの、民衆層が政治に介入してくるのを恐れて、できるだけ穏便に処理したかったのだった[96]。
臨時の委員会が作られ、6月27日から行われた審議は2週間以上かかり7月13日、国王は脅迫と圧力によって決定の自由を奪われており、精神的な意味で誘拐された。したがって、その軽率で無責任な行動は道徳的には非難されなければならないが、法的な責任を問うことはできないとされた。革命派は委員会の決定を批判したが、15日にはこの結論は正式な決定とされ、翌16日に「国王の権限は憲法採択まで停止され、憲法を公式に承認することで権限が回復される。憲法への署名を拒めば失権させられる。将来において、国王がフランス国民に軍を差し向けた場合、憲法への忠誠の誓いを取り消した場合には退位させられる」という修正条項が可決された[97]。
パリの様子
21日の朝8時すぎには、パリ市中に国王逃亡のニュースは伝わっていた。教会の鐘が鳴らされ、国民衛兵が召集された。しかし、市当局がすばやく対応したこともあり、市中は比較的穏やかだった。バイイは朝10時に職員を召集し、常時活動状態にした。また議会と連絡を取り合って、新たな情報が入ると市中に流すとともに、デマや噂をチェックして取り締まった。セクションごとの集会も常時開催を決め、受動的市民にも参加を認めた[98]。最初の衝撃と興奮が過ぎると市は冷静になっていった。「完全な静寂が支配している。それと同時に、誰もが卒中にかかったような、麻痺したような感覚も支配している」とスペイン大使は書いた[99]。

国王がフランス国民に宛てた手紙も発見され、大勢の人々が街路で手紙の写しを読んだり議論したりした[100]。
「あまりに多くの犠牲を払った唯一の代償が、王国の破壊を目撃すること、あらゆる権力が無視され、私的所有権が侵害され、人々の安全がいたるところで危険に晒されるのを見ることであった」[101]
「フランスの人民よ、とりわけパリの人々よ、余の先祖が『素晴らしきパリの都』と呼んで喜んだ都市の人々よ、偽りの友たちの妄言に注意しなさい。そして、君たちの王の元へと戻って来るがいい。彼は常に君たちの父親であり、親友なのだから」[101]
この時、民衆の間に漂っていた空気は悔恨というよりも憤慨だった[101]。
国王が捕まった知らせは22日の夜10時半ごろパリに伝わり、野次馬によって即座に市中に広められた。その翌日は聖体の祝日だったこともあり、祝祭的な気分が広がり昼間は行列、夜は花火が行われ、カーニバル的な雰囲気を生み出した。パリの全地区の国民衛兵は、ラファイエットの指示もあって夕食後に議会に赴き、憲法への宣誓を行った。日没頃には一般市民が地区ごと、友愛協会ごとに自発的に議会に赴き、同様の宣誓を行った。作業用の長ズボンをはいた民衆もブルジョワとともに参加し、儀式は2時間ほど続いた。「自由に生きるか、さもなくば死」という標語も出現し、行列に武器を携える者もいた。それまで『サン=キュロット』とは暴力的な民衆に対する蔑称だったが、ここに政治勢力としてのサン=キュロットが、シンボル的な姿ではあったが出現した[98]。
逃亡事件は民衆の国王に対する意識も変化させた。21日に逃亡のニュースが伝わると、その日のうちに町中にある君主制のシンボルが破壊され始めた。王の肖像は破棄され、ルイ16世を動物、とりわけ豚の姿で描くカリカチュアが現れるようになった[102]。
新聞では、王党派の新聞『ガゼット・ド・パリ』が国王の自由のため自らを捧げる王の身代わりを募集すると4100通の手紙が有志から寄せられる[103]などしたが、国王について肯定的な新聞を見つけるのは難しくなっていた。ブリソは「我々は、この(国王の)すばらしい誓いを信頼していた。我々は眠り込んでいた。国王の約束を厚かましくも疑うなど犯罪であった。なんてことか、この『愛国派の』国王は逃亡した。…いきなり仮面を外したのだ」と主張した。コルドリエ・クラブの会員たちはヴォルテールの戯曲ブリュチュスからの一説を言い換えて発表している[104]。
「思い起こすのだ、シャン・ド・マルスで、尊い祭壇で
ルイはわれらに永遠に忠実で公正であると誓ったことを
だが人民と玉座を結ぶ絆はあまりに強いので
彼がみずからその誓約を裏切ったとき、われらの誓約も引き裂いたのだ[104]」
影響
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この事件はフランス国民に多大な衝撃を与えた。国王が外国の軍隊の先頭に立って攻めてくる気であったという事実は、立憲君主制の前提を根底から揺るがす大問題だった。ルイ16世は革命の敵、反革命側なのであり、それどころか国家の敵ですらあり、フランス人の王としての国民の信頼感は著しく傷つけられた。それまでは国王擁護の立場をとっていた国民が比較的多数を占めていたが、以後、多くは左派になびいて革命はますます急進化した。窮したラメットやバルナーヴは、国王は何ものかによって誘拐されたのだとする陰謀説をでっち上げた。彼らは立憲君主制を成立させるために、ブイエを首謀者とした陰謀説を強弁し、ルイ16世は被害者であったという話をねつ造した[注 4]。このウソはバルナーヴの雄弁によってある程度は成功し、フランス革命は立憲君主制と立法議会の成立というところまで漕ぎついた。
しかし、この公然の嘘に対して、左派は激しく反発。革命はもはや1789年の理想の範疇ではおさまらなかった。シャン・ド・マルスの誓願は、ラファイエットの国民衛兵隊の発砲により流血沙汰となり、共和主義宣伝の機会を与えた。ジャコバン派は分裂し、フイヤン派が脱退する事態となった。フイヤン派は何とか君主制と革命とを両立させようとその後も苦心するが、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが外国軍による解放という考えを捨てなかったこともあって、結局は、共和政(フランス第一共和政)の樹立の方向に革命が進むのを止められなかった。
一方、脱出を手引きしたフェルセンの主君スウェーデン王グスタフ3世は、ドイツのアーヘンにてフェルセンからの報告を待ちわびていたが、結局、脱出成功の報を聞くことはなかった。逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちに亡命フランス貴族と計り、「反革命十字軍」を組織する計画を立てた。10月1日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結したが、最終的にはグスタフ3世の暗殺などで実現することはなかった。グスタフ3世の行動はかなり極端ではあったが、後の対仏大同盟の先鞭となったといえなくもない[注 5][要出典]。
また別に、 1791年8月27日には、すでに亡命に成功していたアルトワ伯が、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世を仲介し「ピルニッツ宣言」を行った。この「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす」という内容の宣言は、革命派には脅迫と受け取られて、実のところ国王一家の立場をより悪くしただけではあったが、フランス革命戦争への号砲となったと言える。というのも、革命派は脅迫を受けて引き下がるどころか、逆にいきり立って戦いを望んだからである。彼らはついには国王の断罪を求めるようになっていくため、ヴァレンヌ事件はブルボン王政の終焉を告げるきっかけともなった。[要出典]
脚注
注釈
- ^ 実際的にはオーストリアを含めて彼女があてにした諸国は戦争に消極的で、1791年時点で介入に同意しそうな国は、(従来はオーストリアの敵であった)プロイセン王国以外にはなかった。ブルトゥイユ男爵は諸国の君主の好意的反応を引き出したが、大臣は賛成せず、支援は上辺だけのものだったからだ。翌年に革命戦争が始まったときでも、宣戦布告したのは革命フランス側からであり、ナポリ王国などマリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナのいる諸国は当初は参戦を見合わせ、国王処刑後ですら王妃の脱出にも助力しなかった。身代金交渉はなかったわけではないが不活発で、マリー・アントワネットが期待したハプスブルク家の援助は、例え逃亡計画が成功していても、はかない夢でしかなかった[要出典]。
- ^ この文書は後に発覚し、バルナーヴの誘拐説のウソを暴いた[要出典]。
- ^ 絵の内容はフィクションで、劇的場面のような演出となっている[要出典]。
- ^ 結果的に、この嘘がフランス国歌の5番において、「ブイエ将軍」と名指しで批判され、悪名が現在に至る要因となっている
- ^ 対仏大同盟自体は、フランスのヨーロッパ支配という新情勢に対する諸外国の国益に根ざした軍事同盟であり、反革命十字軍のような感情的な反発とはかなり目的も趣旨も異なる。むしろ反革命十字軍はその後の神聖同盟と共通点が多い[要出典]。
出典
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