武装中立同盟とは? わかりやすく解説

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武装中立同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/16 14:32 UTC 版)

武装中立同盟(ぶそうちゅうりつどうめい、League of Armed Neutrality)は、アメリカ独立戦争中の1780年から1783年にかけて、ロシア帝国エカチェリーナ2世主導で結成された、ヨーロッパ各国の同盟。

エカチェリーナ2世による武装中立同盟

イギリスの対米海上封鎖(中立国船舶捕獲宣言)に対して、1778年中立国スウェーデンが中立国船舶の保護を訴えた。翌1779年、イギリスの政策に対抗してロシアの女帝エカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言をした。この提唱による参加国は、北欧を中心にロシア・スウェーデン・デンマークプロイセンポルトガルの5か国。植民地政策でのイギリスとの対立や、当時盛んになった啓蒙思想に共鳴したことが同盟参加の鍵となった。

この同盟の結成によりアメリカ独立戦争は国際化し、フランススペインオランダからも宣戦布告されていたイギリスは孤立する結果となり、アメリカの独立を間接的に支援する結果となった。またアメリカ合衆国の独立に際し、ヨーロッパの中立国の中でスウェーデンは最初にアメリカを国家承認した国となった[1](ただしスウェーデン人義勇兵は、両方の陣営に加わっていた[2])。

その他の武装中立同盟

1800年から1801年にかけても、イギリスのマルタ島占領問題を契機として二度目の武装中立同盟が結成された。この際の参加国はロシア、デンマーク、スウェーデン、プロイセンである。イギリスとデンマークはこれが元で対立し、コペンハーゲンの海戦に至った。これは当時、フランスのナポレオン・ボナパルト将軍が起こしたエジプト遠征に端を発した、フランスによるイギリス牽制の意味も込められていた。イギリスのデンマーク攻撃によって同盟は破綻したが、この時にイギリスとフランスとが徹底的に対立したことがナポレオン戦争の本格化に繋がり、この武装中立同盟もその伏線となった。

脚注

  1. ^ 『近世スウェーデンの貿易と商人』p132,この著書では、主に通商関係をメインに描写されており、はっきりと国家の承認と明記されている訳ではない。
  2. ^ 『北欧史 (世界各国史)』 p182,この著書によれば、スウェーデン政府は1778年に中立国船舶の保護を訴えている。

参考文献

  • 『北欧史 (世界各国史)』百瀬宏熊野聰、村井誠人 山川出版社、1998年8月25日初版第1刷
  • 『近世スウェーデンの貿易と商人』レオス・ミュラー 著、玉木俊明、根本聡、入江幸二 訳 嵯峨野書院、2006年3月31日初版第1刷

関連項目

外部リンク


武装中立同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 21:54 UTC 版)

アメリカ独立戦争における外交」の記事における「武装中立同盟」の解説

第一次武装中立同盟は1780年から1783年ヨーロッパ海軍小国結んだ軍事同盟だった。これはイギリス海軍戦時政策としてフランス密輸益する中立国船舶無制限に捜索したことに対して中立国船舶を守ることが意図されたものだったロシア帝国エカチェリーナ2世独立戦争中1780年3月11日グレゴリオ暦2月28日)に武装中立宣言して第一次同盟開始した。これは、武器軍需物資除き中立国交戦国国民支障なく海洋貿易を行う権利保証したのだったロシアは全海岸封鎖認めようとはしなかったが、個々の港のみの封鎖認め、また交戦国戦闘艦実際にいるか近くに居る場合認めたロシア海軍はこの宣言執行するために地中海大西洋および北海に各1戦隊派遣したデンマークとスウェーデンロシア中立同盟提案受け入れ船舶対する同じ政策採用し、この3カ国は同盟形成する協定書署名した。この3カ国はそれ以外のことでは戦争局外に留まったが、交戦国自国船舶捜索されたときは共同報復する脅し掛けた1783年パリ条約戦争終わった時、プロイセン王国神聖ローマ帝国オランダポルトガル王国両シチリア王国およびオスマン帝国同盟加盟するとなっていた。 イギリス海軍はこれらの国の艦隊合わせたよりも優勢だったので、軍事手段としてのこの同盟エカチェリーナ2世が後に呼んだように「武装中立」だった。しかし外交的に大きな重みがあった。フランスアメリカ合衆国新し原則である自由な中立通商に対して直ぐに遵守することを宣言した第四次英蘭戦争戦った両国それとなくオランダ同盟外においておくためのものとその戦争考えていたが、イギリスが公式に同盟敵国認めることは無かった第一次武装中立同盟はその後ナポレオン戦争第二次武装中立同盟として引き継がれたが、大局的に成功せずコペンハーゲンの海戦イギリス勝利したことで終わった

※この「武装中立同盟」の解説は、「アメリカ独立戦争における外交」の解説の一部です。
「武装中立同盟」を含む「アメリカ独立戦争における外交」の記事については、「アメリカ独立戦争における外交」の概要を参照ください。

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