ぶそう‐ちゅうりつ〔ブサウ‐〕【武装中立】
武装中立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 09:01 UTC 版)
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武装中立(ぶそうちゅうりつ)とは、自国軍を保有しつつ、中立主義を取ること。
概要
自国を他のいかなる体制、組織、思想からも一線を画し距離を置くことを中立という。他国、他の組織等からの圧力を排除して中立を保つために必要であるとして、相当程度の軍事力を保持する。
歴史的事例
代表的な例としてスイス連邦があげられる。第二次世界大戦中においても中立を維持するため、連合国、枢軸国どちらにも与せず、スイスを領空侵犯してくる軍用機に対しては、陣営・目的を問わず、迎撃する措置を執った[注釈 1] 。
軍需産業という面では、過去にはスイスのシグが銃器の製造を手掛けていたが、永世中立を掲げる以上、他国に武器を売ればそれは武力供与という形で他国を手助けした事になる為、ドイツの子会社ザウエル&ゾーンに製造と販売を行わせる事で、収益を得るという手順を取っていた。なお、スイスの場合、1815年のウィーン会議によって永世中立国として周辺国等から承認されており、同様の武装中立国であっても、永世中立国とその他の中立国との定義は異なる。
スウェーデンもナポレオン戦争以後、この方針を採っていた。しかし冷戦が終了し、欧州連合に加盟した後は、事実上、中立の方針を放棄し、2024年のNATO加盟をもって名実ともに中立政策を完全に放棄した(スウェーデン軍を参照)。日本は海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦に、スウェーデンのコックムス社のケロシンと酸素を燃料とするスターリング機関(4V-275R MkII)を採用した。
なおスウェーデンは、21世紀まで200年の中立を貫徹してきたと言われているが、正確ではない[1] 。ナポレオン戦争終結直前にはデンマーク=ノルウェーとの交戦があり、またクリミア戦争にも参戦の計画があったからである[2] 。それまでは、単に中立主義国であった[3] 。
スウェーデンが国策として武装中立に乗り出したのは20世紀に入ってからである。スウェーデンはそれまでノルウェーと同君連合を組んでいたが、1905年に解消された。第一次世界大戦を前にして列強間の対立が激しくなったことで、スウェーデンは国防の増強に乗り出したのである[4] 。1914年、北欧三国は、中立の維持と協力を合意し合うことで中立を維持した[5] 。第二次世界大戦前夜では、北欧三国に加え、フィンランドもまた、中立政策を北欧諸国と交わしたが、第二次世界大戦で中立を維持できたのはスウェーデンだけだった[6] 。スウェーデンがより重武装中立をとったのが冷戦期であった。
対ソ関係は元より、1960年代にはベトナム戦争を巡って対米関係も悪化した。さらに中立を信用しないソビエト連邦からも度々侵犯事件を起こされていた。かかる背景において、スウェーデンは重武装政策を推進したのである[7] 。また、ソビエト連邦が西欧諸国に対し宣戦布告を行った場合、スウェーデンも西側に立ってソ連と開戦する密約をNATOと結んでいた事が冷戦終結後に明らかになっている[8] 。
軍事的な中立を保つために両国とも兵器の多くを自国で生産し(軍需産業)、一時は独自の核抑止力確保を目指して核開発を行っていた(スウェーデンの原子爆弾開発を参照)ただし、両国とも核兵器の完成に至る以前に開発を放棄し、スウェーデンは核兵器廃絶の立場に転じている。冷戦終結後のスウェーデンは大きな転機を迎えており、軍需産業を維持しつつも、軍の規模を縮小し、また、他国との軍事的協調関係を構築するようになった。スウェーデンの武装中立政策は、時代と国際情勢によるものであったと言えるが、中立政策もまた、国際情勢とその条件下にあったと言える[9]。
脚注
注釈
出典
- ^ 北欧の外交、p87。スウェーデンの伝統的な中立政策は、およそ180年である。カール14世ヨハンも参照。
- ^ 北欧の外交、p15 - p24。オスカル1世及び汎スカンディナヴィア主義を参照。
- ^ 北欧の外交、p4 - p9。スウェーデン外交関連年表p285では、中立政策の創始は1843年1月4日。自国軍を有していると言う点では武装中立だが、軍事政策とは異なる。
- ^ 北欧の外交、p24 - p26。
- ^ 北欧の外交、p27 - p35。北欧史、p310 -p313。大戦中、様々な妨害を受けつつも、中立は維持された。
- ^ 北欧の外交、p39 - p66、p112 - p125、p147 - p163、p201 - p212。
- ^ 北欧の外交、p74 - p82。
- ^ 北欧の外交、p78、p92。NATOとの協力関係にあったことが、ソビエト連邦の崩壊後にメディアで随時取り上げられるようになった。
- ^ 北欧の外交、p91 - p96。
参考文献
関連項目
武装中立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:06 UTC 版)
現代におけるスイスは、国軍として約4,000名の職業軍人と約21万名の予備役から構成されるスイス軍を有し、有事の際は焦土作戦も辞さない毅然とした国家意思を表明しながら、永世中立を堅持してきた平和・重武装中立国家として知られる。スイスは国際連合平和維持活動(PKO)への参加に積極的で、国外に武装したスイス軍部隊を派兵しているが、決して武力行使をせず、PKOでは武器を用いない人道支援に徹している。 多数の成人男子が、予備役もしくは民間防衛隊(民兵)として有事に備えている。平和国家であるスイスではあるが、スイス傭兵の精強さは、ヨーロッパの歴史上、殊に有名である。現在でも、軍事基地が岩山をくり抜いた地下に建設されるなど高度に要塞化されており、国境地帯の橋やトンネルといったインフラストラクチャには、有事の際速やかに国境を封鎖する必要が生じた場合に焦土作戦を行うため、解体処分用の爆薬を差し込む準備が整っている。 仮に、国境の封鎖に失敗して外国の侵略を受けても主要な一般道路には戦車の侵入を阻止するための障害物や、トーチカが常設してある。東西冷戦の名残で、2006年までは、家を建てる際には防空壕(核シェルター)の設置が義務づけられていた。その数・収容率と強固な構造は、他国の防空壕と比べても群を抜いている。古い防空壕は、地下倉庫や商店などとしても利用されている。 第二次世界大戦中のスイス空軍は、1907年のハーグ陸戦条約で定められた国際法上の「中立義務」を果たすため、領空侵犯する航空機があれば連合国側・枢軸国側を問わず迎撃した。ちなみに、当時のスイス軍の航空機は、一部の国産機を除いてはフランスとドイツの戦闘機を輸入、またはライセンス生産したものだった。 当時、仮に外国の軍隊がスイスを侵略しスイスの存立が絶望的となる最終局面に陥った場合は、外国の軍隊がスイスのインフラを強奪する寸前のところで放火や爆破等の焦土作戦を実施し、侵略者に一切の戦利品を与えないように計画していた。その一方で、当時のスイス政府は柔軟な姿勢で外交と通商を展開した。第二次世界大戦においては、「資源を持たないスイスが、資源を持つ国と通商することは生存権の行使であって、中立義務に違反するものではない」と主張して、国民の生活を守るために必要な資源や武器を枢軸国・連合国双方から輸入し、国益を確保した。 焦土作戦も辞さない悲壮な防衛努力の一方で、外国において武力行使をしない柔軟な外交政策は、現在も変わらない。2008年には、当時の大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国のムアンマル・アル=カッザーフィーが、スイス人ビジネスマン2人を犯罪の容疑者と決めつけて拘留する事件が発生した。カッザーフィーは、ただちにリビアからスイスへの石油輸出を止め、「スイスは、イスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ」として、スイスに対する「聖戦」を訴えてスイス政府を恫喝した。これに対して、スイス政府は、旅行者に扮した軍人と公安関係者からなる特殊部隊をリビアに派遣し、現地で密かに情報収集を行ったが、この特殊部隊は非武装だった。戦力投射能力のないスイス軍に自国民を救出する術はなく、当時のスイス大統領が自らリビアに赴いて、カッザーフィーに謝罪をさせられる屈辱を味わっている。しかし、スイスが欲していた石油は確保された。
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