武装上洛、長州征討
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文久3年(1863年)5月、イギリスから借り入れた2隻の汽船を含む5隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京した。この頃、14代将軍・徳川家茂は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた尊王攘夷派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている。長行一行は6月1日に大坂に上陸するが、在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよんで、上京計画を断念した。長行は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。一行には元外国奉行水野忠徳、南町奉行井上清直ら、攘夷反対を強硬に主張していたグループが同行しており、一連の計画の首謀者は水野であったとも言われている。 元治元年(1864年)に謹慎を解かれ壱岐守となり、慶応元年(1865年)9月4日に再び老中格、さらに老中に再任される。 元治元年7月の第一次長州征討後、幕府は再び長州征伐に取り掛かる。慶応2年(1866年)2月、長行は長州処分の幕命を伝えるため広島に赴き、広島藩を通じて、長州藩家老と支藩藩主らに召喚命令を出したが病として拒絶された。翌月、長行は更に、藩主父子、家老、支藩藩主らが出頭するように命令を出したが、長州藩側は命令に従わなかったため、幕府は6月5日を以て諸方面から進撃すると決定し、長行は6月2日に広島を発ち小倉へ向かい、征討に備えた。 慶応2年6月7日に周防大島で戦闘が始まり(第二次長州征討)、17日には小倉口でも戦闘が開始される(小倉戦争)。長行は小倉口の総督として幕府陸軍歩兵隊や、小倉藩、熊本藩など九州諸藩の軍勢を指揮し、関門海峡をはさんで長州藩と戦うこととなった。小倉藩は小倉口先鋒として戦意は高かったものの装備は旧式であり、幕府歩兵隊、他の九州諸藩兵とも戦闘に消極的で、長行は諸藩をうまく束ねることができず、優勢な海軍力を有しながらも渡海侵攻を躊躇している間に、長州軍が6月17日に田野浦に、7月2日には大里にも上陸して攻勢を掛け、戦闘の主導権を奪われた。7月27日の赤坂・鳥越の戦いでは熊本藩兵が善戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せたが、長行が援軍を拒否したことなどから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国した。長州軍は優勢に戦闘を展開し、幕府側の敗色は濃厚となり、長行は将軍家茂の薨去を機に、事態を収拾する事なく戦線を離脱した。孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わった。この敗戦責任を問われた長行は10月に老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。
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