武装上洛、長州征討とは? わかりやすく解説

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武装上洛、長州征討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 18:20 UTC 版)

小笠原長行」の記事における「武装上洛、長州征討」の解説

文久3年1863年5月イギリスから借り入れた2隻の汽船を含む5隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京したこの頃14代将軍・徳川家茂京都人質に近い状況置かれており、この行動当時京都政局主導していた尊王攘夷派一掃するため、京都武力制圧図ったものとされている。長行一行6月1日大坂上陸するが、在京幕閣猛反対にあい、家茂からも上京差し止め命じられるにおよんで、上京計画断念した長行9日下坂10日には老中職を罷免され結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗終わった一行には元外国奉行水野忠徳南町奉行井上清直ら、攘夷反対強硬に主張していたグループ同行しており、一連の計画首謀者水野であったとも言われている。 元治元年1864年)に謹慎解かれ壱岐守となり、慶応元年1865年9月4日に再び老中格、さらに老中再任される。 元治元年7月第一次長州征討後、幕府は再び長州征伐取り掛かる慶応2年1866年2月長行長州処分幕命伝えるため広島に赴き、広島藩通じて長州藩家老支藩藩主らに召喚命令出したが病として拒絶された。翌月長行は更に、藩主父子家老支藩藩主らが出頭するように命令出したが、長州藩側は命令に従わなかったため、幕府6月5日を以て諸方面から進撃する決定し長行6月2日広島発ち小倉向かい征討備えた慶応2年6月7日周防大島戦闘始まり第二次長州征討)、17日には小倉口でも戦闘開始される(小倉戦争)。長行小倉口の総督として幕府陸軍歩兵隊や、小倉藩熊本藩など九州諸藩軍勢指揮し関門海峡はさんで長州藩と戦うこととなった小倉藩小倉口先鋒として戦意高かったものの装備旧式であり、幕府歩兵隊、他の九州諸藩兵とも戦闘消極的で、長行諸藩をうまく束ねることができず、優勢な海軍力有しながらも渡海侵攻躊躇している間に、長州軍が6月17日田野浦に、7月2日には大里にも上陸して攻勢掛け戦闘主導権奪われた。7月27日赤坂鳥越戦いで熊本藩兵が善戦し長州勢を圧倒する戦い見せたが、長行援軍拒否したことなどから、熊本藩を含む諸藩不信強め、この戦闘後一斉に撤兵帰国した長州軍は優勢に戦闘展開し幕府側の敗色濃厚となり、長行将軍家茂の薨去機に事態収拾する事なく戦線離脱した孤立した小倉藩8月1日小倉城火を放って退却し小倉戦争幕府側の敗北終わった。この敗戦責任問われ長行10月老中罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。

※この「武装上洛、長州征討」の解説は、「小笠原長行」の解説の一部です。
「武装上洛、長州征討」を含む「小笠原長行」の記事については、「小笠原長行」の概要を参照ください。

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