長州征伐とは? わかりやすく解説

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ちょうしゅう‐せいばつ〔チヤウシウ‐〕【長州征伐】

読み方:ちょうしゅうせいばつ

幕末江戸幕府二度にわたり、長州藩攻めた戦い幕府蛤御門(はまぐりごもん)の変を理由に、元治元年(1864)長州出兵したが、外国連合艦隊下関来襲危機立っていた長州藩恭順したので戦わず撤兵。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派恭順派を一掃幕府対抗する姿勢示した幕府慶応2年(1866)長州再征を行った敗退し撤兵以後幕府権威急速に失われた


長州征伐

読み方:チョウシュウセイバツ(choushuuseibatsu)

幕末長州藩を巡る戦争

別名 幕長戦争


長州征討

(長州征伐 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 09:19 UTC 版)

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐[1]長州出兵幕長戦争[2]長州戦争[3]などとも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 福地源一郎は『幕府衰亡論』において、当時の詳細は伝聞と断りを入れた上で、成算も無く自薦で赴いて恥を晒しただけで終わったと酷評している
  2. ^ 3月16日に諸隊は奇兵隊((375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊((150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。
  3. ^ 藩主親子の朝敵の名を除き、封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶。
  4. ^ この戦訓から、西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、かつ幕府の戦力は歩兵以外は役に立たないと判断した。以後の戊辰戦争まで続く幕府軍との戦いにおける戦力の根拠を、自軍1に対し幕府軍10と設定したほど幕府側戦力を非常に小さく見積ることとなった[19]

出典

  1. ^ 全国歴史教育研究協議会編『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社、16刷1998年)p.172.
  2. ^ 『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社)p.172.
  3. ^ 『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社)p.172.
  4. ^ 『歴史と旅 新・藩史事典』(秋田書店、1993年)p.395.
  5. ^ 『忠正公勤王事蹟 訂正補修 』P.477、中原邦平、防長史談会、1911年(明治44)5月
  6. ^ 三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』p266
  7. ^ 第二奇兵隊は14日に大畠(遠崎)から笠佐島西岸へ上陸し(大島側からは見えない)、そこから15日未明に大島へ上陸し西蓮寺に本陣を置いた。
  8. ^ 北川健「幕末長州藩の奇兵隊と部落民軍隊」『山口県文書館研究紀要』第14巻、山口県公文書館、1987年3月、33頁。 
  9. ^ 末松謙澄『修訂防長回天史』 8巻、末松春彦、1921年3月、451-452頁。 
  10. ^ 旧幕府、長吏弾左衛門を編して平人と為す。弾左衛門、乃ち内記と改名す。”. 維新史料綱要データベース. 2023年7月13日閲覧。
  11. ^ 『北九州市史 近世』 pp.896-899
  12. ^ 『北九州市史 近世』 p.900
  13. ^ 『北九州市史 近世』 pp.899-901
  14. ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.901-902
  15. ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.905-908
  16. ^ 『北九州市史 近世』 pp.909
  17. ^ 『北九州市史 近世』 pp.908-909
  18. ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.910
  19. ^ 「史談会速記録」第29巻
  20. ^ #関山、p.p.63.
  21. ^ 原口清『原口清著作集2 孝明天皇と岩倉具視』



長州征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 13:56 UTC 版)

江原素六」の記事における「長州征伐」の解説

慶応元年1865年5月徳川家茂総大将とした長州征伐の際、素六は撤兵中隊長として江戸発った京都では桑名藩邸の警備に就いていたが、旗本家臣諸般の兵に洋式練兵教えるため、京都大坂の間を往来し7月には広島備後三次通り島根石見銀山農民歩兵操練役人砲兵技術教えた慶応2年1882年7月第14代将軍徳川家茂大坂亡くなり長州征伐が中止になると素六も11月江戸戻った江戸に戻る道中で、読書をしなかった日は無かった翌月12月には第15代将軍徳川慶喜警護職務のため歩兵指図役並となり、京都向かった京都滞在中に砲兵指図頭取並に昇進した

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