ちょうしゅう‐せいばつ〔チヤウシウ‐〕【長州征伐】
長州征伐
長州征討
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 09:19 UTC 版)
長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都で禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐[1]、長州出兵、幕長戦争[2]、長州戦争[3]などとも呼ばれる。
注釈
- ^ 福地源一郎は『幕府衰亡論』において、当時の詳細は伝聞と断りを入れた上で、成算も無く自薦で赴いて恥を晒しただけで終わったと酷評している
- ^ 3月16日に諸隊は奇兵隊((375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊((150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。
- ^ 藩主親子の朝敵の名を除き、封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶。
- ^ この戦訓から、西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、かつ幕府の戦力は歩兵以外は役に立たないと判断した。以後の戊辰戦争まで続く幕府軍との戦いにおける戦力の根拠を、自軍1に対し幕府軍10と設定したほど幕府側戦力を非常に小さく見積ることとなった[19]。
出典
- ^ 全国歴史教育研究協議会編『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社、16刷1998年)p.172.
- ^ 『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社)p.172.
- ^ 『日本史Ⓑ用語集』(山川出版社)p.172.
- ^ 『歴史と旅 新・藩史事典』(秋田書店、1993年)p.395.
- ^ 『忠正公勤王事蹟 訂正補修 』P.477、中原邦平、防長史談会、1911年(明治44)5月
- ^ 三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』p266
- ^ 第二奇兵隊は14日に大畠(遠崎)から笠佐島西岸へ上陸し(大島側からは見えない)、そこから15日未明に大島へ上陸し西蓮寺に本陣を置いた。
- ^ 北川健「幕末長州藩の奇兵隊と部落民軍隊」『山口県文書館研究紀要』第14巻、山口県公文書館、1987年3月、33頁。
- ^ 末松謙澄『修訂防長回天史』 8巻、末松春彦、1921年3月、451-452頁。
- ^ “旧幕府、長吏弾左衛門を編して平人と為す。弾左衛門、乃ち内記と改名す。”. 維新史料綱要データベース. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.896-899
- ^ 『北九州市史 近世』 p.900
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.899-901
- ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.901-902
- ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.905-908
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.909
- ^ 『北九州市史 近世』 pp.908-909
- ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.910
- ^ 「史談会速記録」第29巻
- ^ #関山、p.p.63.
- ^ 原口清『原口清著作集2 孝明天皇と岩倉具視』
長州征伐
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慶応元年(1865年)5月、徳川家茂を総大将とした長州征伐の際、素六は撤兵中隊長として江戸を発った。京都では桑名藩邸の警備に就いていたが、旗本や家臣、諸般の兵に洋式練兵を教えるため、京都と大坂の間を往来し、7月には広島、備後三次を通り、島根・石見銀山の農民に歩兵操練、役人に砲兵の技術を教えた。慶応2年(1882年)7月、第14代将軍徳川家茂が大坂で亡くなり長州征伐が中止になると素六も11月に江戸に戻った。江戸に戻る道中で、読書をしなかった日は無かった。翌月12月には第15代将軍徳川慶喜警護の職務のため歩兵指図役並となり、京都へ向かった。京都滞在中に砲兵指図役頭取並に昇進した。
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