解放戦争 (ドイツ)
解放戦争(ドイツ) | |||||||||
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第六次対仏大同盟中 | |||||||||
アレクサンダー・サウルヴァイドによるライプツィヒの戦い | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
当初からの参戦国 バイエルン王国 ヴュルテンベルク王国 | デンマーク=ノルウェー | ||||||||
指揮官 | |||||||||
カール・フィリップ アレクサンドル1世 ミハイル・バルクライ・ド・トーリ ピョートル・ヴィトゲンシュテイン レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル カール・ヨハン王太子 | ナポレオン1世 ウジェーヌ・ド・ボアルネ ジャック・マクドナル ニコラ・ウディノ ミシェル・ネイ | ||||||||
戦力 | |||||||||
1813年8月16日: 512,113名[2] 1,380門[2] | 1813年8月16日: 442,810 名[4] 大砲 1,284門[4] | ||||||||
被害者数 | |||||||||
299,000名[5]
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解放戦争(かいほうせんそう、ドイツ語: Befreiungskriege、英語: German War of Liberation)は、ナポレオン戦争の最終段階のドイツにおける呼称である。
1813年3月17日のプロイセンの対フランス宣戦布告に始まり、10月16日-19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)を経て、1814年3月31日のパリ陥落によってナポレオン1世のドイツ支配は打倒された。1815年のワーテルローの戦いまでを含める見方もある。
日本では「諸国民戦争」ないしは「諸国民解放戦争」と呼ぶ用例も見られるが、この呼称はドイツ語の「解放戦争」(Befreiungskriege)と「諸国民の戦い」(Völkerschlacht, ライプツィヒの戦いの別称)との混同による誤用であると考えられる[注釈 3]。また、英語またはドイツ語で「諸国民の戦争」(英語: The War of Nations, ドイツ語: Völkerkrieg)といえば、通常は第一次世界大戦を指す[要出典]。
概要
ナポレオン1世がロシア遠征に失敗する[1]と、その支配下に置かれたドイツを中心とした各国から反ナポレオンの声が上がってきた。プロイセンでは国軍のみならず義勇軍も組織され、フリードリヒ・ウィルヘルム3世は「鉄十字勲章」を創設するなど、督励、鼓舞に熱心であった。
1813年、プロイセンの元首相でロシアの皇帝顧問カール・シュタインはナポレオン1世の敗退を好機と捉え、ドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。さらにプロイセンにもロシアとの同盟を打診し(カリシュ条約)[1]、第六次対仏大同盟が成立した。
3月17日に満を持してプロイセンがフランスへ宣戦を布告した[1]。元ナポレオン1世麾下で、王太子となったベルナドットのスウェーデンも同月にフランスに宣戦布告した[1]。
ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍は、10月16日-19日のライプツィヒの戦いでフランス軍を破り[1]、ナポレオン1世のドイツ支配を打倒した。連合軍はフランス国内へ進撃し、1814年3月31日にパリへ入城した[1]。
脚注
注釈
出典
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- ^ a b c d e f g 『解放戦争』 - コトバンク
- ^ a b c Maude 1908, p. 156.
- ^ Maude 1908, p. 149.
- ^ a b Maude 1908, p. 148.
- ^ a b Bodart 1916, p. 46.
- ^ Bodart 1916, p. 130.
- ^ 文部科学省
解放戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 08:45 UTC 版)
「ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル」の記事における「解放戦争」の解説
1813年、ナポレオンのロシア戦役が失敗に終わると、ブリュッヘルは軍司令官の職に復帰した。プロイセンはフランスに対して宣戦布告し、いわゆる諸国民解放戦争が開始された。ブリュッヘルはプロイセン軍総司令官に任じられ、参謀総長(兵站総監)となったシャルンホルストと共に指揮に当たることとなった。3月、プロイセン軍の春季攻勢が開始されたが、リュッツェンの戦いとバウツェンの戦いで多大な損害を出し、一時休戦が結ばれた。また、リュッツェンで受けた傷が元でシャルンホルストが死亡したため、グナイゼナウが後任の参謀総長に着任した。いまだフランスの戦力が侮れないことであることを知ったプロイセンは、各国との同盟に走り、同年8月、第六次対仏大同盟が結成された。 8月12日、同盟に基づいてオーストリア帝国がフランスへ宣戦布告、ロシア帝国、スウェーデン王国も行動を開始した。同盟軍の足並みは一定ではなかったが、グナイゼナウは各軍内部に派遣したプロイセン参謀将校を通じて、戦略レベルでの協同行動を実現した。ブリュッヘルは、プロイセン兵40,000、ロシア兵50,000で構成されるシレジア軍を直率し、フランスへの進軍を開始した。8月26日、ブリュッヘルはカッツバッハの戦いでマクドナルド元帥率いるフランス軍を撃破した。モーツケルンでマルモン元帥を破ったブリュッヘルは、10月16日、陸軍元帥に叙せられた。10月16日から19日にかけて行われたライプツィヒの戦いで、同盟軍はナポレオンの率いるフランス軍を破り、ドイツからフランスを排除した。この功績が認められ、ブリュッヘルは大鉄十字星章を授与された。この勲章を与えられたのは後のヒンデンブルク元帥と彼だけである。 1814年、同盟軍はフランス本土へ侵攻した。フランス軍はいくつかの戦術的勝利を収めたものの、戦略的には追い詰められていった。3月13日、ブリュッヘル率いるプロイセン軍はパリへ入城した。パリが外国軍の進入を許したのは、400年前の百年戦争以来のことであった。4月4日、ナポレオンは退位させられ、エルバ島に流刑となった。ブリュッヘルはナポレオンは危険であり、銃殺すべきだと主張したが聞き入れられなかった。6月3日、ブリュッヘルにワールシュタット大公の爵位が授与された。その後まもなくブリュッヘルはイギリスを訪問し、熱烈な歓迎を受けた。帰国後、ブリュッヘルは退役し、シレジアに落ち着いた。
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解放戦争
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「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト」の記事における「解放戦争」の解説
1813年、ナポレオンのロシア戦役が失敗に終わると、シャルンホルストらはプロイセン軍に再度招聘された。シャルンホルストは再び兵站総監(参謀総長)となり、あわせて中将に昇進、プロイセン軍総司令官ブリュッヘルのもとで解放戦争を指導することとなった。シャルンホルストはグナイゼナウを先任参謀将校に任命し、彼とともに作戦立案に当たった。 同年3月、プロイセン軍は攻撃を開始した。5月2日、緒戦のリュッツェンの戦いでプロイセン軍は敗退、シャルンホルストは脛を撃たれて負傷した。にもかかわらず、シャルンホルストはオーストリア帝国を味方につけるため、傷をおしてウィーンへ向かった。6月28日、傷が悪化して敗血症に感染したシャルンホルストは、プラハで亡くなった。グナイゼナウとクラウゼヴィッツは共同して追悼の辞を書いたが、彼の業績はまだ評価が固まっていないという理由で、政府はその公表を認めなかった。グナイゼナウは猛抗議をして公表を認めさせた。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はラウフに命じて、ベルリンにシャルンホルストの彫像を建造させた。
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解放戦争
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追い詰められたアウン派はシリア軍と対決した。この戦闘は「解放戦争(英語版)」と呼ばれ、82年のイスラエル軍の侵攻を除けば、戦車や長距離砲、ロケット砲を用いた、内戦でもっとも規模の大きな戦闘となった。アウンは一時、占領者からレバノンを守る英雄として、マロン派ばかりでなくムスリムにさえ支持者があらわれた。しかし、支援は途絶え、シリア軍の猛攻の前に敗北した。立てこもっていた大統領府へのシリア空軍による爆撃が始まると、アウンはフランス大使館に逃亡し、亡命を申請した。この総攻撃はレッド・ライン協定違反だったが、イスラエルはアメリカの懐柔により、シリアへの非難を控えた。 1990年10月13日にシリア軍が出動し、アウン派を制圧した。この際、多数のアウン派将兵が逮捕・処刑されるか、シリアに連行されたといわれる。親シリア派でアウンと対立的であったハラウィを中心に、キリスト教徒・ムスリム両派の民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣が樹立、内戦は一応の収束がなされた。 1991年3月に国会は特赦法を可決させ、全ての政治的な意図に基づく判決を免除した。5月からは東ベイルート、ジュニエといったマロン派の本拠地に進駐したシリアが、段階的に民兵組織を武装解除および解散させていったが、シリアやイランと深い関係を持つヒズボラは除外された。国軍も派閥性を排除したレバノン唯一の武装組織としての地位を維持するための再編がなされた。 1991年7月6日にサイダで発生したPLOと国軍の戦闘(英語版)を最後に組織的戦闘は終結したが、その後も散発的な爆破テロは発生した。
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解放戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「1812年ロシア戦役」および「解放戦争 (ドイツ)」を参照 フランスの支配下にあったプロイセンでは反ナポレオン感情が保持され、ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)となった。1812年、ナポレオンは60万の大陸軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオン軍の3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセン、オーストリアなどのドイツ人であった。ドイツ軍のなかではナポレオン側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、『戦争論』で知られるプロイセン将校クラウゼヴィッツはロシア軍へ身を投じた。1812年12月30日、プロイセン将校ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(ヨルク)将軍は、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の同意を待たずに専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定を結んで部隊を中立化し、ナポレオン軍から離脱した。 プロイセンとロシアが停戦すると、ヨルク軍が入った東プロイセンから北ドイツ諸邦でフランスの支配への蜂起に繋がっていき、プロイセン王国の元首相でロシア帝国の皇帝顧問カール・シュタインがロシアを説得して1813年2月27日にプロイセンとロシアが同盟した。プロイセンでは一般兵役義務が布告され、国軍と義勇軍が組織された。3月16日に、フランスへ宣戦が布告され、翌日プロイセンでは国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が「わが国民へ」で祖国解放のための国民の決起が訴えられた。3月25日のカーリッシュ宣言では、ライン同盟の解散が宣言され「ドイツ国民の本源的精神からうまれる、若返った、強力な、統一されたドイツ帝国」の再興が約束された。ドイツ解放戦争の中心にいたのはシュタインであり「祖国はただひとつドイツ」とするシュタインはライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪し、ライン同盟諸国家の主権剥奪を計画した。愛国記者アルントはシュタインとともにして、フランスの殲滅を鼓吹し、戦死した詩人ケルナーはドイツの聖戦を歌った。そして、学生、手工業者、農民の若者たちが、身銭を切って武装し、志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情がこれまでになく高まった。ドイツ解放戦争で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1813年、リュッツォウ少佐と抗仏組織リュツォー義勇団を創設し、体操など体育教育を普及させ「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった。ヤーンの傘下には学生結社ブルシェンシャフトもあった。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していたわけではない。 1813年6月にイギリスが、7月にスウェーデンのベルナドットがプロイセンとロシアの同盟に参加し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦して、第六次対仏大同盟が成立した。10月の最大規模の戦闘ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、36万の対仏連合軍はグナイゼナウの指揮下、19万のフランス軍を破った。メッテルニヒはライン川で講和しようとしたが、アルントはライン川はドイツの川で、国境ではないと論じ、ゲレスも反ナポレオンの論陣を張った。1814年にメットラーカンプと共同してハンブルク市民軍を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である」と述べた。対仏連合軍は1814年3月30日にパリへ入城し、ナポレオンはエルバ島に流され、こうしてナポレオンのドイツ支配は打倒された。
※この「解放戦争」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「解放戦争」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
解放戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:12 UTC 版)
「蒼き革命のヴァルキュリア」の記事における「解放戦争」の解説
ユトランド王国が経済封鎖を主導したルーシ帝国に対して行った戦争。緒戦の段階では「窮鼠猫を噛む」と揶揄され、列強支配体制への反逆行為と非難された。その後、スレイマンの外交工作で列強の結束も乱されることになる。なお、正史上、命名者はリンデゴーア卿とされるが、実際はスレイマンの命名。
※この「解放戦争」の解説は、「蒼き革命のヴァルキュリア」の解説の一部です。
「解放戦争」を含む「蒼き革命のヴァルキュリア」の記事については、「蒼き革命のヴァルキュリア」の概要を参照ください。
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