解放戦争 (ドイツ)
(解放戦争 から転送)
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解放戦争(ドイツ) | |||||||||
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第六次対仏大同盟中 | |||||||||
![]() アレクサンダー・サウルヴァイドによるライプツィヒの戦い |
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衝突した勢力 | |||||||||
当初からの参戦国 ![]() ![]() ![]() |
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指揮官 | |||||||||
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戦力 | |||||||||
1813年8月16日: 512,113名[2] 1,380門[2] |
1813年8月16日: 442,810 名[4] 大砲 1,284門[4] |
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被害者数 | |||||||||
299,000名[5]
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解放戦争(かいほうせんそう、ドイツ語: Befreiungskriege、英語: German War of Liberation)は、ナポレオン戦争の最終段階のドイツにおける呼称である。
1813年3月17日のプロイセンの対フランス宣戦布告に始まり、10月16日-19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)を経て、1814年3月31日のパリ陥落によってナポレオン1世のドイツ支配は打倒された。1815年のワーテルローの戦いまでを含める見方もある。
日本では「諸国民戦争」ないしは「諸国民解放戦争」と呼ぶ用例も見られるが、この呼称はドイツ語の「解放戦争」(Befreiungskriege)と「諸国民の戦い」(Völkerschlacht, ライプツィヒの戦いの別称)との混同による誤用であると考えられる[注釈 3]。また、英語またはドイツ語で「諸国民の戦争」(英語: The War of Nations, ドイツ語: Völkerkrieg)といえば、通常は第一次世界大戦を指す[要出典]。
概要
ナポレオン1世がロシア遠征に失敗する[1]と、その支配下に置かれたドイツを中心とした各国から反ナポレオンの声が上がってきた。プロイセンでは国軍のみならず義勇軍も組織され、フリードリヒ・ウィルヘルム3世は「鉄十字勲章」を創設するなど、督励、鼓舞に熱心であった。
1813年、プロイセンの元首相でロシアの皇帝顧問カール・シュタインはナポレオン1世の敗退を好機と捉え、ドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。さらにプロイセンにもロシアとの同盟を打診し(カリシュ条約)[1]、第六次対仏大同盟が成立した。
3月17日に満を持してプロイセンがフランスへ宣戦を布告した[1]。元ナポレオン1世麾下で、王太子となったベルナドットのスウェーデンも同月にフランスに宣戦布告した[1]。
ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍は、10月16日-19日のライプツィヒの戦いでフランス軍を破り[1]、ナポレオン1世のドイツ支配を打倒した。連合軍はフランス国内へ進撃し、1814年3月31日にパリへ入城した[1]。
脚注
注釈
出典
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- ^ a b c d e f g 『解放戦争』 - コトバンク
- ^ a b c Maude 1908, p. 156.
- ^ Maude 1908, p. 149.
- ^ a b Maude 1908, p. 148.
- ^ a b Bodart 1916, p. 46.
- ^ Bodart 1916, p. 130.
- ^ 文部科学省
解放戦争
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「ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル」の記事における「解放戦争」の解説
1813年、ナポレオンのロシア戦役が失敗に終わると、ブリュッヘルは軍司令官の職に復帰した。プロイセンはフランスに対して宣戦布告し、いわゆる諸国民解放戦争が開始された。ブリュッヘルはプロイセン軍総司令官に任じられ、参謀総長(兵站総監)となったシャルンホルストと共に指揮に当たることとなった。3月、プロイセン軍の春季攻勢が開始されたが、リュッツェンの戦いとバウツェンの戦いで多大な損害を出し、一時休戦が結ばれた。また、リュッツェンで受けた傷が元でシャルンホルストが死亡したため、グナイゼナウが後任の参謀総長に着任した。いまだフランスの戦力が侮れないことであることを知ったプロイセンは、各国との同盟に走り、同年8月、第六次対仏大同盟が結成された。 8月12日、同盟に基づいてオーストリア帝国がフランスへ宣戦布告、ロシア帝国、スウェーデン王国も行動を開始した。同盟軍の足並みは一定ではなかったが、グナイゼナウは各軍内部に派遣したプロイセン参謀将校を通じて、戦略レベルでの協同行動を実現した。ブリュッヘルは、プロイセン兵40,000、ロシア兵50,000で構成されるシレジア軍を直率し、フランスへの進軍を開始した。8月26日、ブリュッヘルはカッツバッハの戦いでマクドナルド元帥率いるフランス軍を撃破した。モーツケルンでマルモン元帥を破ったブリュッヘルは、10月16日、陸軍元帥に叙せられた。10月16日から19日にかけて行われたライプツィヒの戦いで、同盟軍はナポレオンの率いるフランス軍を破り、ドイツからフランスを排除した。この功績が認められ、ブリュッヘルは大鉄十字星章を授与された。この勲章を与えられたのは後のヒンデンブルク元帥と彼だけである。 1814年、同盟軍はフランス本土へ侵攻した。フランス軍はいくつかの戦術的勝利を収めたものの、戦略的には追い詰められていった。3月13日、ブリュッヘル率いるプロイセン軍はパリへ入城した。パリが外国軍の進入を許したのは、400年前の百年戦争以来のことであった。4月4日、ナポレオンは退位させられ、エルバ島に流刑となった。ブリュッヘルはナポレオンは危険であり、銃殺すべきだと主張したが聞き入れられなかった。6月3日、ブリュッヘルにワールシュタット大公の爵位が授与された。その後まもなくブリュッヘルはイギリスを訪問し、熱烈な歓迎を受けた。帰国後、ブリュッヘルは退役し、シレジアに落ち着いた。
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