解放戦争とは? わかりやすく解説

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解放戦争 (ドイツ)

(解放戦争 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/25 16:03 UTC 版)

解放戦争(ドイツ)
第六次対仏大同盟

アレクサンダー・サウルヴァイドによるライプツィヒの戦い
1813年–1814年
場所ドイツ、中央ヨーロッパ
結果 対仏大同盟の勝利
領土の
変化
ライン同盟の解体[1]
ノルウェースウェーデンへ割譲
衝突した勢力

当初からの参戦国
 オーストリア帝国
 ロシア帝国
プロイセン王国
 スウェーデン
イギリス
メクレンブルク=シュヴェリーン
ライプツィヒの戦い後

ザクセン王国
バイエルン王国
ヴュルテンベルク王国

フランス帝国


ライン同盟[注釈 2]

デンマーク=ノルウェー
指揮官
カール・フィリップ
アレクサンドル1世
ミハイル・バルクライ・ド・トーリ
ピョートル・ヴィトゲンシュテイン
レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン
ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル
カール・ヨハン王太子
ナポレオン1世
ウジェーヌ・ド・ボアルネ
ジャック・マクドナル
ニコラ・ウディノ
ミシェル・ネイ
戦力

1813年8月16日:
合計: 860,000名[2]

野戦軍:
512,113名[2]
1,380門[2]

1813年8月16日:
合計: 700,000名[3]

野戦軍:
442,810 名[4]
大砲 1,284門[4]
被害者数
299,000名[5]
  • 戦傷者 223,000名
  • 捕虜・行方不明者 76,000名
446,000名[5][6]
  • 戦死者 60,000名
  • 戦傷者 196,000名
  • 捕虜・行方不明者 190,000名

解放戦争(かいほうせんそう、ドイツ語: Befreiungskriege英語: German War of Liberation)は、ナポレオン戦争の最終段階のドイツにおける呼称である。

1813年3月17日プロイセンの対フランス宣戦布告に始まり、10月16日-19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)を経て、1814年3月31日パリ陥落によってナポレオン1世のドイツ支配は打倒された。1815年ワーテルローの戦いまでを含める見方もある。

日本では「諸国民戦争」ないしは「諸国民解放戦争」と呼ぶ用例も見られるが、この呼称はドイツ語の「解放戦争」(Befreiungskriege)と「諸国民の戦い」(Völkerschlacht, ライプツィヒの戦いの別称)との混同による誤用であると考えられる[注釈 3]また、英語またはドイツ語で「諸国民の戦争」(英語: The War of Nations, ドイツ語: Völkerkrieg)といえば、通常は第一次世界大戦を指す[要出典]

概要

ナポレオン1世がロシア遠征に失敗する[1]と、その支配下に置かれたドイツを中心とした各国から反ナポレオンの声が上がってきた。プロイセンでは国軍のみならず義勇軍も組織され、フリードリヒ・ウィルヘルム3世は「鉄十字勲章」を創設するなど、督励、鼓舞に熱心であった。

1813年プロイセンの元首相でロシアの皇帝顧問カール・シュタインはナポレオン1世の敗退を好機と捉え、ドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。さらにプロイセンにもロシアとの同盟を打診し(カリシュ条約英語版[1]第六次対仏大同盟が成立した。

3月17日に満を持してプロイセンがフランスへ宣戦を布告した[1]。元ナポレオン1世麾下で、王太子となったベルナドットスウェーデンも同月にフランスに宣戦布告した[1]

ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍は、10月16日-19日のライプツィヒの戦いでフランス軍を破り[1]、ナポレオン1世のドイツ支配を打倒した。連合軍はフランス国内へ進撃し、1814年3月31日パリへ入城した[1]

脚注

注釈

  1. ^ Duchy of Warsaw as a state was in effect fully occupied by Russian and Prussian forces by May 1813, though most Poles remained loyal to Napoleon.[要出典]
  2. ^ Many member states defected after Battle of Leipzig.[要出典]
  3. ^ 教科書検定において、「諸国民戦争」という用語の用法の誤りが指摘されている[7]

出典

  1. ^ a b c d e f g 解放戦争』 - コトバンク
  2. ^ a b c Maude 1908, p. 156.
  3. ^ Maude 1908, p. 149.
  4. ^ a b Maude 1908, p. 148.
  5. ^ a b Bodart 1916, p. 46.
  6. ^ Bodart 1916, p. 130.
  7. ^ 文部科学省

解放戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 08:45 UTC 版)

ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル」の記事における「解放戦争」の解説

1813年ナポレオンロシア戦役失敗に終わると、ブリュッヘル軍司令官の職に復帰したプロイセンフランスに対して宣戦布告しいわゆる諸国民解放戦争開始された。ブリュッヘルプロイセン軍総司令官任じられ参謀総長兵站総監となったシャルンホルストと共に指揮に当たることとなった3月プロイセン軍春季攻勢開始されたが、リュッツェンの戦いバウツェン戦いで多大な損害出し一時休戦結ばれたまた、リュッツェンで受けた傷が元でシャルンホルスト死亡したため、グナイゼナウ後任参謀総長着任した。いまだフランス戦力侮れないことであることを知ったプロイセンは、各国との同盟走り同年8月第六次対仏大同盟結成された。 8月12日同盟基づいてオーストリア帝国フランスへ宣戦布告ロシア帝国スウェーデン王国行動開始した同盟軍足並み一定ではなかったが、グナイゼナウ各軍内部派遣したプロイセン参謀将校通じて戦略レベルでの協同行動実現したブリュッヘルは、プロイセン40,000ロシア兵50,000構成されるシレジア軍を直率し、フランスへ進軍開始した8月26日ブリュッヘルはカッツバッハの戦いでマクドナルド元帥率いフランス軍撃破した。モーツケルンでマルモン元帥破ったブリュッヘルは、10月16日陸軍元帥叙せられた。10月16日から19日にかけて行われたライプツィヒの戦いで、同盟軍ナポレオン率いフランス軍破りドイツからフランス排除した。この功績認められブリュッヘル大鉄十字星章授与された。この勲章与えられたのは後のヒンデンブルク元帥と彼だけである。 1814年同盟軍フランス本土侵攻したフランス軍はいくつかの戦術的勝利を収めたものの、戦略的に追い詰められていった3月13日ブリュッヘル率いプロイセン軍パリへ入城したパリ外国軍進入許したのは、400年前百年戦争以来のことであった4月4日ナポレオン退位させられエルバ島流刑となったブリュッヘルナポレオンは危険であり、銃殺すべきだと主張した聞き入れられなかった。6月3日ブリュッヘルにワールシュタット大公爵位授与された。その後まもなくブリュッヘルイギリス訪問し熱烈な歓迎受けた帰国後、ブリュッヘル退役しシレジア落ち着いた

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解放戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 12:51 UTC 版)

ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト」の記事における「解放戦争」の解説

1813年ナポレオンロシア戦役失敗に終わると、シャルンホルストらはプロイセン軍再度招聘された。シャルンホルストは再び兵站総監(参謀総長)となり、あわせて中将に昇進プロイセン軍総司令官ブリュッヘルのもとで解放戦争を指導することとなったシャルンホルストグナイゼナウ先任参謀将校任命し、彼とともに作戦立案当たった同年3月プロイセン軍攻撃開始した5月2日緒戦リュッツェンの戦いプロイセン軍敗退シャルンホルストは脛を撃たれ負傷した。にもかかわらずシャルンホルストオーストリア帝国味方につけるため、傷をおしてウィーン向かった6月28日、傷が悪化して敗血症感染したシャルンホルストは、プラハ亡くなったグナイゼナウクラウゼヴィッツ共同して追悼の辞を書いたが、彼の業績はまだ評価固まっていないという理由で、政府はその公表認めなかった。グナイゼナウは猛抗議をして公表認めさせた。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はラウフに命じてベルリンシャルンホルスト彫像建造させた。

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解放戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)

レバノン内戦」の記事における「解放戦争」の解説

追い詰められアウン派はシリア軍対決した。この戦闘は「解放戦争(英語版)」と呼ばれ82年イスラエル軍侵攻除けば戦車長距離砲ロケット砲用いた内戦でもっとも規模大きな戦闘となったアウン一時占領者からレバノンを守る英雄としてマロン派ばかりでなくムスリムにさえ支持者あらわれた。しかし、支援途絶えシリア軍猛攻前に敗北した立てこもっていた大統領府へのシリア空軍による爆撃が始まると、アウンフランス大使館逃亡し亡命申請した。この総攻撃レッド・ライン協定違反だったが、イスラエルアメリカ懐柔により、シリアへの非難控えた1990年10月13日シリア軍出動しアウン派を制圧したこの際多数アウン将兵逮捕・処刑されるか、シリア連行されといわれる。親シリア派でアウン対立的であったハラウィ中心にキリスト教徒ムスリム両派の民兵組織指導者閣僚に就任した挙国一致内閣樹立内戦は一応の収束なされた1991年3月国会特赦法を可決させ、全ての政治的な意図に基づく判決免除した5月からは東ベイルートジュニエといったマロン派本拠地進駐したシリアが、段階的に民兵組織武装解除および解散させていったが、シリアイランと深い関係を持つヒズボラ除外された。国軍派閥性排除したレバノン唯一の武装組織としての地位維持するための再編なされた1991年7月6日サイダ発生したPLO国軍戦闘英語版)を最後に組織的戦闘終結したが、その後散発的な爆破テロ発生した

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解放戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「解放戦争」の解説

1812年ロシア戦役」および「解放戦争 (ドイツ)」を参照 フランス支配下にあったプロイセンでは反ナポレオン感情保持されドイツ解放戦争(ナポレオン戦争となった1812年ナポレオン60大陸軍率いてロシア遠征開始したナポレオン軍3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセンオーストリアなどのドイツ人であったドイツ軍のなかではナポレオン側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、『戦争論』で知られるプロイセン将校クラウゼヴィッツロシア軍身を投じた1812年12月30日プロイセン将校ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(ヨルク)将軍は、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世同意待たず専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定結んで部隊中立化し、ナポレオン軍から離脱したプロイセンロシア停戦すると、ヨルク軍が入った東プロイセンから北ドイツ諸邦でフランス支配への蜂起繋がっていき、プロイセン王国元首相ロシア帝国皇帝顧問カール・シュタインがロシア説得して1813年2月27日プロイセンロシア同盟したプロイセンでは一般兵義務布告され国軍義勇軍組織された。3月16日に、フランスへ宣戦布告され翌日プロイセンでは国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が「わが国民へ」で祖国解放のための国民決起訴えられた。3月25日のカーリッシュ宣言では、ライン同盟解散宣言されドイツ国民の本源的精神からうまれる、若返った強力な統一されドイツ帝国」の再興約束されたドイツ解放戦争の中心にいたのはシュタインであり「祖国ただひとドイツ」とするシュタインライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪しライン同盟諸国家の主権剥奪計画した愛国記者アルントはシュタインとともにして、フランス殲滅鼓吹し戦死した詩人ケルナードイツ聖戦歌った。そして、学生手工業者農民若者たちが、身銭切って武装し志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情これまでになく高まったドイツ解放戦争で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1813年リュッツォウ少佐と抗仏組織リュツォー義勇団創設し体操など体育教育普及させ「体操の父」としてドイツ国民的英雄となったヤーン傘下には学生結社ブルシェンシャフトもあった。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人参加者もおり、ユダヤ人排斥していたわけではない1813年6月イギリスが、7月スウェーデンベルナドットプロイセンロシア同盟参加し8月11日オーストリアフランスへ宣戦して、第六次対仏大同盟成立した10月最大規模戦闘ライプツィヒの戦い諸国民の戦い)で、36の対仏連合軍グナイゼナウ指揮下、19フランス軍破ったメッテルニヒライン川で講和ようとしたが、アルントはライン川ドイツの川で、国境ではないと論じ、ゲレスも反ナポレオン論陣張った1814年にメットラーカンプと共同してハンブルク市民軍創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人選ばれた民、人類代表する民である」と述べた。対仏連合軍1814年3月30日パリへ入城しナポレオンエルバ島流され、こうしてナポレオンドイツ支配打倒された。

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解放戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:12 UTC 版)

蒼き革命のヴァルキュリア」の記事における「解放戦争」の解説

ユトランド王国経済封鎖主導したルーシ帝国に対して行った戦争緒戦段階では「窮鼠猫を噛む」と揶揄され、列強支配体制への反逆行為非難された。その後スレイマン外交工作列強結束乱されることになる。なお、正史上、命名者はリンデゴーア卿とされるが、実際スレイマン命名

※この「解放戦争」の解説は、「蒼き革命のヴァルキュリア」の解説の一部です。
「解放戦争」を含む「蒼き革命のヴァルキュリア」の記事については、「蒼き革命のヴァルキュリア」の概要を参照ください。

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