解放戦争とシモン・ボリーバルとは? わかりやすく解説

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解放戦争とシモン・ボリーバル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:48 UTC 版)

ベネズエラの歴史」の記事における「解放戦争とシモン・ボリーバル」の解説

近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 何回かの失敗終わった蜂起の後シモン・ボリーバル指導の下で1821年スペインからの独立達成したベネズエラ現在のコロンビアパナマエクアドルとともに大コロンビア形成したが、1830年分離して独立国になった18世紀末からヨーロッパ政治情勢不安定化受けてベネズエラでも独立の気運高まった1795年にはフランス領サン=ドマングでの黒人反乱ハイチ革命)の影響受けた黒人暴動勃発した1797年フランス革命戦争一環としてベネスエラ総監領のトリニダード島イギリス占領され1802年には正式に割譲されるとベネスエラにもヨーロッパ戦争身近なものになってきた。1804年にはハイチ革命影響受けた有色人種暴動カスタ反乱起きた1806年に元スペイン軍軍人で、ヨーロッパ各界の著名人親交があったフランシスコ・デ・ミランダベネスエラ独立のためにアメリカ合衆国から200人の義勇兵率いて上陸したイギリス支援受けたこのミランダ蜂起は、しかし現地住民動き呼応せず失敗し植民地当局警戒態勢強くした。1808年5月9日カラカスのアユンタミエント(市参事会)は、フェルナンド7世即位したことを知るが、その2ヶ月後の7月5日には、フランス帝国ナポレオンフェルナンド7世追放し、兄のホセ1世スペイン国王据えた(これにより本国スペインではスペイン独立戦争勃発していた)ことを、到着したフランス船が伝えカラカス総督のフアン・デ・カサスと現地官公吏ホセ1世への服従求めた1809年カサス総督更迭され新任のビセンテ・エムパラン総督は、イギリス他の外国との貿易自由化するなど、現地迎合政策施した。しかしスペイン本国進展(セビーリャ陥落最高中央評議会カディス撤退解散)の知らせ現地の不安は増し、エムパラン総督ホセ1世接近していることが知られると、カラカス指導者層は4月19日にエムパラン総督罷免決議しフンタフェルナンド7世諸権利ベネズエラ諸州が保持する最高評議会(Junta Suprema conservadora de los derechos de Fernando VII)」を設立した最高評議会構成員立場一様ではなく独立主張する急進派(ボリーバルなど)がいた一方でアセンダード多く自治派(autonomistas)であった最高評議会議会開設準備進めて1810年6月選挙細則決定し選出され議会が翌1811年3月2日カラカス大聖堂開催された。議会同年7月5日に「ベネスエラ・アメリカ合衆国」(Confederación Americana de Venezuela)として、スペインからの独立宣言した歴史学上のベネズエラ第一共和国英語版)(1810年 - 1812年時代成立した同年12月シモン・ボリーバルカラカス市参事会代表して亡命していたミランダ連れ戻した12月21日ラテン・アメリカ諸国初めての憲法ベネズエラ諸州連邦憲法」が制定された。これはアメリカ合衆国憲法強く影響受けた憲法であったが、市民権拒否され黒人パルドらの反乱王党派巧みに利用した。しかし、1812年3月カラカス地震によりカラカス大打撃を受け、市の2/3崩壊する解放軍指導者に就任していたミランダにもスペイン軍止めることは出来ず、かかる状況下で降伏亡命主張したミランダシモン・ボリーバルによってスペイン軍引き渡されカディス送られ獄死した。以降解放戦争主導権不屈の闘志抱いたボリーバル引き継がれることになる。 ボリーバルは、現在のコロンビアに当たるヌエバ・グラナダ連合州が支配していたカルタヘナ逃れて抵抗続けたヌエバ・グラナダ独立指導者アントニオ・ナリーニョフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年崩壊したベネスエラ共和国代表として抵抗続けていたシモン・ボリーバル統領とするベネスエラ独立勢力らと協力してスペイン軍戦いボリーバル1813年にはベネスエラを再び解放した。しかし、本国でのフェルナンド7世反動的復位によってスペイン軍は再び勢力増した独立軍連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)との不一致突かれる形で1814年2月にはボゴタ喪失し、ナリーニョはスペイン連行され投獄されてしまった。ボリーバルその後カリブ海側のカルタヘナ拠点スペイン軍戦いボゴタ奪還したものの、1815年6月カルタヘナ起きた王党派蜂起敗れ辛うじてイギリス領ジャマイカ逃れたが、1816年5月スペイン軍攻撃によりボゴタ陥落した。 しかし、ボリーバルジャマイカ有名なジャマイカ書簡』を書いた後、イギリスなど友好関係結んで援助を受けることに成功し、さらにハイチ渡ってハイチ南部支配していたアレクサンドル・ペション大統領に、ラテンアメリカ解放後黒人奴隷解放することを条件物心両面援助受けた1816年にはまたもやベネスエラ上陸したが、ジャネーロ(オリノコ川流域平原部=リャノに住む、牧童たちのこと。ベネスエラガウチョ)の協力取り付けただけで敗れてしまい、ハイチに引き返すことになったそうこうしているうちにボゴタ陥落してしまったが1817年今度準備整えてベネスエラに再侵攻しスペイン軍の裏をかいてまずヌエバ・グラナダ解放しようとしたベネスエラアンゴストゥーラ解放された後、1818年にはジャネーロの頭目だったホセ・アントニオ・パエス(英語版)の力を借りることに成功し1819年にはアンゴストゥーラ臨時首都としてのベネスエラ第三共和国再建されコロンビア共和国1819年 - 1831年)も創設された。 1819年8月ボヤカの戦い勝利するボゴタ解放されヌエバ・グラナダ最終的に解放されて、ボリーバルコロンビア共和国建国正式に宣言しコロンビア首都改名されボゴタ定められた。こうしてボリーバルヌエバ・グラナダ拠点故国ベネスエラ解放進め1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)での勝利によりカラカス解放されると、ベネスエラ最終的に解放され両国改め正式にコロンビア共和国形成した1820年には解放されグアヤキルが、1822年にはキト併合され、このコロンビア共和国現在のコロンビアベネスエラエクアドルパナマ全て及びペルーガイアナブラジル一部を含む北部南米一帯占め大国家となったボリーバルがペルー・ボリビア方面解放に向かう中、1821年9月ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダ代表してボリーバル副官務めていたサンタンデルコロンビア共和国副大統領となり、不在大統領に代わってヌエバ・グラナダ治めていた。1827年ボリーバル帰還後コロンビア共和国集権的まとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラ支配する ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の不満は大きくなっていったサンタンデル1828年にはボリーバル暗殺謀ったため亡命した。さらにキト巡ってコロンビアペルー戦争起き、もはやボリーバル威信低下は明らかであったその後ボリーバルコロンビア分裂回避すべく統治したが、上手く行かずベネスエラ独立要求したコロンビア共和国維持解放者力量持ってしても不可能かと思われた。 1830年エクアドル(旧「南部地区」。キトグアヤキルクエンカ連合して赤道共和国名乗った)と、故郷ベネスエラパエス指導下で完全独立果たし南米大陸統合夢に敗れ自分政治的な努力全て無為に終わったことを悟った解放者終身大統領辞職しヨーロッパ向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近失意の内に病死した。 解放戦争終わった時、南米大陸各地での戦闘主力担ったベネスエラ兵は多数死者出し、さらに戦時中地震疫病によりクリオージョ伝統的な支配層崩壊し人口独立前3/4程の80万人減っていた。

※この「解放戦争とシモン・ボリーバル」の解説は、「ベネズエラの歴史」の解説の一部です。
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