解放直後から大韓民国建国まで
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「韓国における政党史」の記事における「解放直後から大韓民国建国まで」の解説
8月15日の解放以後、呂運亨を中心に左翼・中道勢力が「建国準備委員会」(略称:建準)を結成、一方の保守民族主義勢力は国民大会準備会(アメリカ軍の仁川上陸を翌日に控えた9月7日、宋鎮禹や金性洙、徐相日、金俊淵、張沢相、金東圭等の民族主義者が中心となって結成)を基礎にして9月に宋鎮禹や金性洙を中心に「韓国民主党」(略称:韓民党)を結成したが、米軍が南朝鮮に進駐した時点で、政党や政治団体の数が70余りにも及び、1946年9月までに米軍政庁と各道庁に登録された政党数は107にも昇った。これらの政党は、朝鮮共産党や朝鮮人民党などの左派政党を別にして理念や政策の違いは殆どなく、近代的な政党政治のための基盤が未整備な状態の中、政治指導者の個人的人脈や地縁によって作られた名望家政党もしくは幹部政党の色合いが強かった。これらの政党及び政治グループはやがて、解放直後に結成された建準から改変した「朝鮮人民共和国」(以下、人共)の系譜を受継いだ社会主義若しくは共産主義者勢力(左派勢力)と、中国重慶に置かれていた大韓民国臨時政府(以下、臨政)を支持する保守民族主義勢力の二大勢力に収斂していくことになった。 表1:1947年8月現在の南朝鮮における政党・社会団体の政治的立場分布 右翼中道右翼中道中道左翼民戦(左翼)政党数44 18 9 6 41 全党員数(千名)12,483 4,028 2,882 4,609 14,450 出典:“法政大学出版局『韓国現代政治の条件』崔章集著・中村福治訳”の81頁上段の図より政党数と党員数を引用して作成した。 左派勢力と右派勢力がしのぎを削る中、1947年3月のトルーマン・ドクトリンに始まる米ソ冷戦の激化で、米国は信託統治や左右合作による南北統一政府樹立方針から南朝鮮のみでの単独政府樹立に方針を転換し、左派勢力に対する弾圧を強化したことで、左派勢力は地下潜行を余儀なくされた。また中道勢力は、左右対立の真只中で両派からの攻撃を受け、分裂を繰り返し、両派に修練していくことになった。1948年5月10日に行われた初代総選挙には、単独政府を主張してきた韓民党と李承晩を総裁とする大韓独立促成国民会(独促)やそれに近いグループのみが参加し、金九ら南北協商派や金奎植など中道勢力は選挙への参加を拒否した。そのため、制憲国会では李承晩を支持する右派勢力が圧倒的多数を占めた。しかし、李承晩を支援してきた韓民党は、議院内閣制導入や国務委員(閣僚)の配分をめぐって、袂を分かつことになった。
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