独立の気運
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
ギリシャ人たちの中で広範囲に散らばったギリシャ人の中で商業活動を営む者が存在したが、彼らはヨーロッパにおける18世紀後半以降の「フィルヘレニズム」(親ギリシャ主義)と啓蒙思想にであった。そしてフィルヘレニズムの人々は、異民族にギリシャが支配されている状況を一種の「病気」と捉え、この解放が責務と考える人々も存在した。そしてこの考え方はオスマン帝国内のギリシャ人にも影響を及ぼし、ギリシャ学校では古代ギリシャ語、古代ギリシャ史などが教育され、ヨーロッパに頒布していた『古代ギリシャ史』もギリシャ語に翻訳された。このような風潮の中、1770年2月にはペロポネソス半島でギリシャ人による蜂起が発生、すぐさま鎮圧された。これが独立を目指したものかどうかは不明であるが、ギリシャ人地主がエカテリーナ2世の元、南下政策を行っていたロシア帝国と連絡を取っており、これを否定することもできない。 この当時、オスマン帝国が弱体化しつつあったことと、イギリス・フランス・ロシアの列強三国がオスマン帝国における覇権をめぐって争う(東方問題)状況にいたっており、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約により、ロシア保護下となったギリシャ商人の活動が活発化、さらに1800年、イオニア七島連邦国が短期間ながらも建国されたことにより、政治的権利が与えられたこともギリシャ人が独立を目指す要因となった。 18世紀末、ウィーンにおいてリガス・ヴェレンスティリスは秘密結社を結成、『ルメリ、小アジア、エーゲ海諸島、ワラキア・モルドヴァの人々による新政治体制』を著し、バルカン半島における共和国の建国を目指したが、彼はオスマン帝国に逮捕され絞首刑に処された。さらにロシア帝国では「フィリキ・エテリア」が結成され、オスマン帝国下のギリシャ人、イオニア諸島、ロシア、西部ヨーロッパ、中央ヨーロッパのギリシャ人らが参加した。エテリアの目的はギリシャ民族の解放であり、目指すところは不明確ではあったが、ロシア帝国が同じ東方正教を信じていたことや露土戦争によりオスマン帝国と戦っていたことからエテリアはロシアの支持があると噂されたため、多くの人々が参加した。 エテリアはロシアに接近して援助を得ようとして、ロシア皇帝アレクサンドル1世の外務次官でイオニア七島連邦国にもかかわっていたギリシャ人、イオアニス・カポディストリアスにエテリアの総司令官に就任を要請したが、カポディストリアスはこれは失敗に終わると睨んでいたため断った。結局、総司令官にはフォナリオテスのギリシャ人、アレクサンドロス・イプシランチが就任した。1820年4月、イプシランチが総司令官に就任するとギリシャ解放計画が立てられ始め、1821年3月、イプシランチはオスマン帝国国境プルート川を渡河、ここにギリシャ独立戦争が開始された。なお、ギリシャ独立記念日はこの日ではなく、パトラ府主教のゲルマノスが聖ラヴラ修道院で決起の旗を揚げた1821年3月25日になっているが、それ以前にも各地で革命勢力が活動を行っていた。
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