独立への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:11 UTC 版)
「日本占領時期のインドネシア」の記事における「独立への対応」の解説
日本政府は太平洋戦争の開戦直後からビルマ、フィリピン、インドについては独立を支援する方針が明確だったが、インドネシアの独立については慎重だった。石油を中心とする資源を必要としたのが理由で、東條英機内閣時代にインドネシアの領有論が優勢になった。日本政府は1943年にフィリピン独立に向けた準備をしている間、同時進行でインドネシアの島々を大日本帝国に併合することを決定した。太平洋戦争が転機を迎える1944年末まで、日本側はインドネシアの独立を真剣に支持しなかった。 スカルノが1942年に陸軍第16軍の今村と会談をした際には、インドネシアの独立は終戦後とされており、日本軍の勝利が前提だった。しかし戦局が日本軍にとって不利になるにつれて、日本軍政監部はインドネシア人の協力を維持するために独立を示す必要に迫られた。1943年7月には東條内閣がインドネシア人の政治参与の約束をしたが、ここでの政治参与とは中央や地方の行政へのインドネシア人登用を意味し、独立への言及はなかった。11月には大東亜共栄圏の独立国首脳が集まる大東亜会議が開催されたが、インドネシアは独立が認められていないため会議に参加できず、スカルノ一行の来日では他の独立国首脳と会わないようにスケジュールが組まれた。来日したスカルノらは、東條首相に3点の要望を出した。(1) インドネシアを3分割ではなく1つの行政単位として、ビルマやフィリピンと同様の地位を認めてほしい。(2) インドネシア民族の悲願に対して日本政府の方針を早く発表してほしい。(3) 紅白民族旗と民族歌の使用を認めてほしい。しかし東條内閣はいずれも認めなかった。 東條内閣が倒れたのちの1944年9月には、小磯國昭内閣がインドネシアの将来の独立を認める小磯声明を発表した。小磯声明の影響で独立意識をもつ青年(プムダ)のグループが相次いで出現し、早期の独立実現を求めるようになった。1945年4月29日、第16軍の司令官である原田熊吉中将は、第16軍支配下にある地域の独立を確立させる初期段階として、独立準備調査会(BPUPK)を設立した。独立準備委員会についても報道映画が制作されたが、終戦に間に合わず放映されなかった スカルノは1945年6月に独立準備委員会で演説を行い、インドネシア独立後のヴィジョンを示した。スカルノは国民主義、国際主義、民主主義、社会的正義、神への信仰の5つを原則として掲げた。そして5原則をパンチャシラと呼び、インドネシア共和国の基本原則にすることを呼びかけた。独立準備委員会の憲法作成は、この5原則のもとで進められた。
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