インドネシア独立後
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1963年には日本の秋田県知事などがインドネシアにカルティニの銅像を寄贈した。このカルティニ像はジャカルタの独立記念公園に設置されている。 カルティニは1964年5月2日に大統領決定108号によって国家独立英雄の称号を与えられた。式典にはカルティニの息子であるスサリットの孫など彼女の遺族が参列した。彼女の誕生日である4月21日は「カルティニの日」 (Hari Kartini) と呼ばれ、様々な行事が催されている。
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インドネシア独立後
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その後、インドネシアがオランダからの独立を達成し、1955年9月、インドネシア国政史上初めて総選挙が実施されると、シャフリルはこのPSIを率いて総選挙に臨んだ。しかし、得票率わずか2.0%で大敗する。1950年代の議会制民主主義期は、小政党に転落したPSIを率いながら、インドネシアにおける社会主義・民主主義の確立をめざして言論活動を継続したが、1958年2月のスマトラ反乱(インドネシア共和国革命政府 Pemerintah Revolusioner Republik Indonesia、略称PRRI)にPSI関係者が参加したことで、同党は活動停止の処分となった。 1962年1月16日、政権転覆の謀議を図ったとの疑いで、スカルノ政権によって逮捕される。もともとシャフリルとスカルノの政治的・思想的対立の溝は深く、シャフリルはスカルノを批判し続けてきたが、この逮捕によって、スカルノの長年の「政敵」の一人として、葬り去られたことになる。 その拘留中に発病し、スカルノの許可を得て治療のためスイスに出国、そのまま同国に亡命し、1966年4月、チューリッヒで客死した。遺体は、スカルノ失脚後にインドネシアに搬送され、ジャカルタの英雄墓地に埋葬された。
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