議会制民主主義期
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オランダとの独立戦争後、1950年9月6日、単一の共和国として発足したインドネシアで、マシュミ党の穏健派ナシールを首相とする内閣が発足した。しかし、政治的には独立を達成したインドネシアではあっても、独立戦争期に膨れ上がった軍事組織の解体・合理化の問題、国内に渦巻く地方の不満への対応、そしてオランダとの外交交渉で残された西イリアン問題など、課題は山積していた。 独立戦争後のマシュミ党は、人口の9割弱がムスリムであるインドネシアにおいて、潜在的に大規模な動員力をもつイスラーム団体であった。そのため一刻も早く総選挙を実施することを綱領に掲げ、選挙で圧倒的な得票率を上げて、国政の主導権を握ろうとしたが、これは他の諸政党(とくに第二党のインドネシア国民党)の警戒を呼んだ。 1951年3月、地方議会設置をめぐる混乱によってナシール内閣が総辞職すると、マシュミ党保守派のスキマンを首班とする内閣が発足した。この内閣にはインドネシア国民党からの入閣を得たが、マシュミの穏健派グループからの入閣はなかった。そして翌1952年2月、外相のアフマッド・スバルジョ(Ahmad Subarjo、1896-1978年)が内閣に諮ることなくアメリカと相互安全保障協定を締結したことが発端となって、内閣は総辞職した。 1951年4月27日、インドネシア国民党のウィロポを首班とする連立内閣では、宗教大臣の任命をめぐって、マシュミ党で内紛が生じた。独立戦争後、3代の内閣でNUが得てきた宗教相のポストをマシュミ内の穏健派が獲得したため、1952年7月、NUはマシュミから脱退した。 ジャワ中東部の農村で影響力をもつNUの脱退によってマシュミ党の動員力は後退した。また、マシュミと連立を組んだ国民党首班ウィロポ内閣の崩壊後、次の国民党首班アリ・サストロアミジョヨ内閣ではマシュミからの入閣はなく、その政府下で行なわれた地方首長の交代によって、マシュミ党の首長がポストを失った。 1955年9月29日、マシュミが勢力を減退させていくなかで実施されたインドネシア初の総選挙(総議席数272、うち民選議席数257)では、得票率20.9%(57議席)を獲得し、第二党の地位を得たが、インドネシア国民党(22.3%、57議席)の後塵を拝する結果となった。マシュミ党から脱退したNUは第三党(20.9%、45議席)となり、その集票力の高さを証明した。また、この選挙で、インドネシア国民党、NU、インドネシア共産党(PKI)がジャワで強く、マシュミもジャワでの高い得票数を得たが、スマトラで圧倒的に強いことが明らかとなり、後にスマトラの地方反乱にマシュミ党が接近する布石となった。
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議会制民主主義期
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「インドネシアの歴史」の記事における「議会制民主主義期」の解説
1949年12月27日、ハーグ協定の署名式がおこなわれ、この日に主権はオランダからインドネシア連邦共和国に委譲された。この連邦共和国は、16の国・自治地域から構成され、各構成国・自治地域は以下のとおりである:インドネシア共和国、東インドネシア国、パスンダン国、東ジャワ国、マドゥラ国、東スマトラ国(インドネシア語版、英語版)、南スマトラ国(インドネシア語版)、中部ジャワ自治国、バンカ自治国、ビリトン自治国、リアウ自治国、西カリマンタン特別地域(インドネシア語版)、大ダヤク自治国(インドネシア語版)、バンジャル地域(インドネシア語版)、東南カリマンタン(インドネシア語版)、東カリマンタン(インドネシア語版)。そのうちインドネシア共和国は、ジャワの約半分とスマトラの大部分を有し、人口でも、連邦共和国全体で4600万人のうち、3100万人を占めていた。 インドネシア共和国以外の構成国の多くは、独立戦争のさなかにオランダが自らを利するために現地支配者層と結んで作った傀儡国家であった。しかし、独立戦争末期にはこれらの諸国でも「オランダ離れ」がすすんでおり、政治指導者たちのあいだでも、オランダよりもインドネシア共和国と協調したほうが現実的であると考えられるようになっていた。自治国の一つだったパスンダン国のバンドンで、元蘭印軍大尉ウェステルリンク(英語版)の私兵Legioen van Ratu Adil(APRA)が破壊活動をおこなうなどの逆行する流れもあったが(en:APRA Coup d'état)、1950年1月、このパスンダン国は解散し、共和国に合流した。同年3月には他の11国がこれにならい、最終的には同年8月15日、連邦共和国は解散されて、残りの国もふくめた単一のインドネシア共和国が発足した。同日にインドネシア共和国暫定憲法(以下、1950年憲法と略す)を公布・施行し、議会制民主主義のもとで国政を運営していくことになった。 なお、ハーグ協定によって、インドネシア連邦共和国とオランダは、オランダ女王を首長とするオランダ・インドネシア連合(オランダ語版) (Uni Belanda-Indonesia) を形成すると規定されていたが、1951年1月にはインドネシア国民党をはじめとする諸政党が連合破棄をもとめ、1954年8月、このオランダとの連合国家の解消が宣言された。 1956年にはハーグ協定を正式に破棄して、西側に属するオランダと決別し、非同盟中立国家として歩むことを目指した。さらに1957年12月には、植民地時代から蓄え続けていた自らの利権を死守すべくインドネシア国内に残っていたオランダ人を追放した。 インドネシアは、オランダによる地域の統合をそのまま引き継いだ為、民族や文化に統一的なアイデンティティを求めることは難しかった。1955年9月29日に実施されたインドネシアでの国民議会議員選出の最初の総選挙(および12月15日の制憲議会議員選挙)には、さまざまな支持母体をもつ政党が参加し、3900万人以上のインドネシア国民が投票を行った。その結果は、インドネシア国民党、マシュミ、NUナフダトゥル・ウラマー党、インドネシア共産党の4大政党が票を分け合い、複雑な政治的対抗軸を形成した。民族・宗教・イデオロギーを異にする政党同士に妥協の余地は少なく、議会は空転し、この時期の内閣はいずれも短命に終わった。 また、独立戦争期をとおして、行政や国軍の内部では権力の分散化が進み、中央政府あるいは軍中枢からの統制は、かならずしも地方に及んでいなかった。イスラーム国家の樹立を目指すアチェ州のダウド・ブルエの反乱は独立戦争のさなかから1965年まで続き、西ジャワのセカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨのダルル・イスラーム運動(英語版)(1962年銃殺)、南スラウェシ州のカハル・ムザカル(英語版)の反乱、そして1956年から1958年まで続いた西スマトラのプルメスタの反乱(英語版)および同年から1961年まで継続して活動したインドネシア共和国革命政府など、インドネシアは国家分裂の危機に瀕していた。 この当時のスカルノは、1955年に開催された第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催するなど、国際政治の場面では非同盟諸国のリーダーとして脚光を浴びていたが、国内政治においては、大統領に強大な権限をあたえない1950年憲法のもとで、リーダーシップを発揮できない状態にあった。 議会制民主主義の機能不全や、政党政治家たちの腐敗を目の当たりにして、スカルノは国軍司令官スディルマンの協力を得て、1959年7月、制憲議会の解散と、大統領に強大な権限をあたえる1945年憲法への復帰を宣言した。
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