議会制民主主義期とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 議会制民主主義期の意味・解説 

議会制民主主義期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/25 01:32 UTC 版)

マシュミ」の記事における「議会制民主主義期」の解説

オランダとの独立戦争後1950年9月6日単一共和国として発足したインドネシアで、マシュミ党穏健派ナシール首相とする内閣発足した。しかし、政治的に独立達成したインドネシアではあっても、独立戦争期膨れ上がった軍事組織解体合理化問題国内渦巻く地方の不満への対応、そしてオランダとの外交交渉残され西イリアン問題など課題山積していた。 独立戦争後マシュミ党は、人口の9割弱がムスリムであるインドネシアにおいて、潜在的に大規模な動員力をもつイスラーム団体であった。そのため一刻も早く総選挙実施することを綱領掲げ選挙圧倒的な得票率上げて国政主導権握ろうとしたが、これは他の諸政党(とくに第二党インドネシア国民党)の警戒呼んだ1951年3月地方議会設置をめぐる混乱によってナシール内閣総辞職すると、マシュミ党保守派のスキマンを首班とする内閣発足したこの内閣にはインドネシア国民党からの入閣得たが、マシュミ穏健派グループからの入閣はなかった。そして翌1952年2月外相のアフマッド・スバルジョ(Ahmad Subarjo、1896-1978年)が内閣諮ることなくアメリカ相互安全保障協定締結したことが発端となって内閣総辞職した1951年4月27日インドネシア国民党のウィロポを首班とする連立内閣では、宗教大臣の任命めぐってマシュミ党内紛生じた独立戦争後3代内閣NU得てきた宗教相のポストマシュミ内の穏健派獲得したため、1952年7月NUマシュミから脱退したジャワ中東部の農村影響力をもつNU脱退によってマシュミ党動員力は後退したまた、マシュミ連立組んだ国民党首班ウィロポ内閣崩壊後次の国民党首班アリ・サストロアミジョヨ内閣ではマシュミからの入閣はなく、その政府下で行なわれ地方首長交代によって、マシュミ党首長ポスト失った1955年9月29日マシュミ勢力減退させていくなかで実施されインドネシア初の総選挙(総議席272、うち民選議席257)では、得票率20.9%(57議席)を獲得し第二党地位得たが、インドネシア国民党(22.3%、57議席)の後塵を拝する結果となったマシュミ党から脱退したNU第三党(20.9%、45議席)となり、その集票力の高さを証明したまた、この選挙で、インドネシア国民党NUインドネシア共産党PKI)がジャワ強くマシュミジャワでの高い得票数得たが、スマトラ圧倒的に強いことが明らかとなり、後にスマトラ地方反乱マシュミ党接近する布石となった

※この「議会制民主主義期」の解説は、「マシュミ」の解説の一部です。
「議会制民主主義期」を含む「マシュミ」の記事については、「マシュミ」の概要を参照ください。


議会制民主主義期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:02 UTC 版)

インドネシアの歴史」の記事における「議会制民主主義期」の解説

1949年12月27日ハーグ協定署名式がおこなわれ、この日に主権オランダからインドネシア連邦共和国委譲された。この連邦共和国は、16の国・自治地域から構成され、各構成国自治地域以下のとおりである:インドネシア共和国東インドネシア国パスンダン国、東ジャワ国、マドゥラ国、東スマトラ国(インドネシア語版、英語版)、南スマトラ国(インドネシア語版)、中部ジャワ自治国バンカ自治国、ビリトン自治国リアウ自治国、西カリマンタン特別地域インドネシア語版)、大ダヤク自治国インドネシア語版)、バンジャル地域インドネシア語版)、東南カリマンタンインドネシア語版)、東カリマンタンインドネシア語版)。そのうちインドネシア共和国は、ジャワ約半分スマトラ大部分有し人口でも、連邦共和国全体で4600万人のうち、3100万人占めていた。 インドネシア共和国以外の構成国多くは、独立戦争のさなかにオランダが自らを利するために現地支配者層結んで作った傀儡国家であった。しかし、独立戦争末期にはこれらの諸国でも「オランダ離れ」がすすんでおり、政治指導者たちのあいだでも、オランダよりもインドネシア共和国協調したほうが現実的であると考えられるようになっていた。自治国一つだったパスンダン国バンドンで、元蘭印軍大尉ウェステルリンク(英語版)の私兵Legioen van Ratu AdilAPRA)が破壊活動をおこなうなどの逆行する流れもあったが(en:APRA Coup d'état)、1950年1月、このパスンダン国解散し共和国合流した同年3月には他の11国がこれにならい、最終的に同年8月15日連邦共和国解散されて、残りの国もふくめた単一インドネシア共和国発足した同日インドネシア共和国暫定憲法(以下、1950年憲法と略す)を公布施行し議会制民主主義のもとで国政運営していくことになった。 なお、ハーグ協定によって、インドネシア連邦共和国オランダは、オランダ女王首長とするオランダ・インドネシア連合オランダ語版) (Uni Belanda-Indonesia) を形成する規定されていたが、1951年1月にはインドネシア国民党はじめとする諸政党が連合破棄をもとめ、1954年8月、このオランダとの連合国家解消宣言された。 1956年にはハーグ協定正式に破棄して西側属すオランダ決別し非同盟中立国家として歩むことを目指した。さらに1957年12月には、植民地時代から蓄え続けていた自らの利権死守すべくインドネシア国内残っていたオランダ人追放したインドネシアは、オランダによる地域統合そのまま引き継いだ為、民族文化統一的なアイデンティティ求めることは難しかった1955年9月29日実施されインドネシアでの国民議会議員選出最初総選挙(および12月15日制憲議会議員選挙)には、さまざまな支持母体をもつ政党参加し3900万人上のインドネシア国民投票行ったその結果は、インドネシア国民党マシュミNUナフダトゥル・ウラマー党、インドネシア共産党4大政党が票を分け合い複雑な政治的対抗軸を形成した民族・宗教イデオロギー異にする政党同士妥協余地少なく議会空転し、この時期内閣はいずれ短命に終わったまた、独立戦争期とおして行政国軍内部では権力分散化進み中央政府あるいは軍中からの統制は、かならずしも地方及んでいなかった。イスラーム国家樹立目指すアチェ州ダウド・ブルエ反乱独立戦争のさなかから1965年まで続き、西ジャワセカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨのダルル・イスラーム運動英語版)(1962年銃殺)、南スラウェシ州のカハル・ムザカル(英語版)の反乱、そして1956年から1958年まで続いた西スマトラプルメスタ反乱英語版)および同年から1961年まで継続して活動したインドネシア共和国革命政府など、インドネシア国家分裂の危機瀕していた。 この当時スカルノは、1955年開催され第1回アジア・アフリカ会議バンドン会議)を主催するなど、国際政治場面で非同盟諸国リーダーとして脚光を浴びていたが、国内政治においては大統領強大な権限あたえない1950年憲法のもとで、リーダーシップ発揮できない状態にあった議会制民主主義機能不全や、政党政治家たちの腐敗目の当たりにして、スカルノ国軍司令官スディルマン協力得て1959年7月制憲議会解散と、大統領強大な権限をあたえる1945年憲法への復帰宣言した

※この「議会制民主主義期」の解説は、「インドネシアの歴史」の解説の一部です。
「議会制民主主義期」を含む「インドネシアの歴史」の記事については、「インドネシアの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「議会制民主主義期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「議会制民主主義期」の関連用語

議会制民主主義期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



議会制民主主義期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマシュミ (改訂履歴)、インドネシアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS