プルメスタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:02 UTC 版)
「インドネシア共和国革命政府」の記事における「プルメスタ」の解説
中央政府が頑なな態度を貫いたのには理由があった。1950年、インドネシアはオランダとの停戦後に分割された諸国を統一し、ひとつの共和国として再出発した。だがほどなくして、ジャワ島ではイスラーム国家の樹立をめざすダルル・イスラーム運動(英語版)(Darul Islam, DI)が蜂起した。これにアチェ州のダウド・ブルエ、南スラウェシ州のカハル・ムザカル(英語版)らが呼応し、インドネシアは独立後すぐに分裂の危機へと陥っていたのである。 さらに問題を大きくしていたのがプルメスタ(英語版)(Permesta)の存在であった。スラウェシ島の有力者たちは、スマトラの有力者と同様に、国内の政治・経済的な権力分配へ不満を抱いていた。主な理由は中央政府の政策による地域開発の遅れ、ジャカルタ中心の政策に対して天然資源は外島地方から集められる不公平、インドネシアでもっとも人口と政治的影響力の大きいジャワ人への警戒心などであった。 1957年初頭、マカッサルから地方指導者たちがジャカルタを訪れ、サレハ・ラハド(インドネシア語版)中佐とモハマッド・ユスフ(インドネシア語版)少佐がナスティオン参謀長と面会した。当時、ラハドは東インドネシア全体を管轄する第7軍管区(ウィラブアナ師団)における南・南東スラウェシ治安司令部の参謀長、ユスフはハサヌディン歩兵連隊の隊長であった。ラハドとユスフは第7軍管区の指揮下にあった治安司令部を、陸軍司令部の直轄である地方軍管区司令部へ昇格させるようもとめた。2月にはスラウェシ州知事のアンディ・パングラン・プタ・ラニ(インドネシア語版)がアリ・サストロアミジョヨ首相およびスナルヨ(インドネシア語版)内務大臣と面会し、スラウェシへのより大きな自治権付与と国家歳入の割当てを要請した。2月末には第7軍管区の司令官フェンチェ・スムアル中佐ほか数名がやはり地方分権を訴えるためジャカルタへ渡り、スムアルは彼らの努力に共感する将校たちと面会できたが、政府との交渉は不首尾に終わり3月1日に帰郷した。マカッサルでは指導者たちが、交渉失敗に備えて2月25日に会合をもっていた。 3月2日午前3時、スムアルはマカッサルの知事公邸前で、第7軍管区全域に戦争状態を宣言した。その後、プルメスタ憲章または全体闘争憲章が読み上げられた。憲章の最後で「我々はインドネシア共和国からの離脱ではなく、ただインドネシア人民の命運の改善と、国民革命において残された問題の解決を望んでいるにすぎない」と宣言した。憲章は約50人の出席者によって署名され、パングラン知事は各員が落ち着いてその職務に当たるよう命じた。翌日、スムアルを軍政長官、ラハドを参謀長とする軍事政権が発表され、続いてパングランを含む4人の軍政知事を任命した。 3月14日、プルメスタ政権の代表団がジャカルタを訪れ、スカルノ大統領と下野していたハッタに別々の面会を求めた。スカルノはプルメスタがインドネシアからの独立を目指していないと保証されて安堵する一方、ハッタはプルメスタ憲章に感銘を受けた様子だった。しかし同日、サストロアミジョヨ首相が辞任を表明し、スカルノはナスティオンの提案で国家非常事態を宣言するとともに、ジュアンダを新首相として任命した。ジュアンダはスムアルと同郷の閣僚ら4名による対策本部を設置し、7月23日にプルメスタ政権と会談を持ったのち、北スラウェシへ新たに自治州と大学を設置することで合意した。またジュアンダは国民評議会を開くことを約束した(上述のスマトラ反乱への対策として、これが活用されることになる)。主な議題は政治、経済、軍事、スカルノ・ハッタ関係とされた。国民評議会が物別れに終わった後も数度にわたって会議が開かれたが、中央政府とプルメスタ政権の両方を満足させる合意は作れなかった。 一方、軍上層部もすばやく反応した。3月2日のうちにナスティオンは東・南東スラウェシ治安司令官のスディルマン大佐へ電報を送り、スラウェシの人々が危険にさらされるような行動は慎むよう命じた(スディルマンはすでにスムアルと人づてに連絡をとり、マカッサル市内の治安を維持することで合意していた)。3月15日には一時的にプルメスタの軍政知事が司令部でも受け入れられ、またナスティオンはかつて要求されたように地方軍管区を新設することを決定した。ただし新たな軍管区は4つの軍政区域に基づいて設定され、これにより南スラウェシが軍管区として独立したため、第7軍管区司令官であったスムアルはマカッサルでの地位と南スラウェシ関係者(ユスフやパングランなど)の支持を失って本部を北スラウェシへ移した。さらに、南スラウェシからの参加者はプルメスタ運動に武力紛争が必要かどうか疑問に感じ始めた。孤立したスムアルはスマトラへ赴き、アフマドやバリアンらとともにパレンバン憲章へ署名するに至った。
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