中央軍の攻撃
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「インドネシア共和国革命政府」の記事における「中央軍の攻撃」の解説
「テガス作戦」はカハルッディン・ナスティオン(インドネシア語版)中佐の指揮下にあり、中部スマトラのプカンバル確保を目的としていた。この地域で産出される石油をいち早く抑えるとともに、リアウ近辺のPRRI勢力がマレーシア・シンガポール方面に支援を求めたり、撤退することを防ぐためでもあった。作戦は2月22日に発起され、3月22日に作戦行動を開始した。PRRI側の盗聴を防ぐため、作戦中の通信ではもっぱらジャワ語が用いられた。リアウは短期間で制圧され、また空港では荷下ろしされたばかりのPRRI軍火器を押収した。 「ムルデカ作戦」は当初、4つの「サプタマルガ作戦」で構成されていた。「サプタマルガ1作戦」はスマルソノ(インドネシア語版)中佐が指揮し、中央スラウェシ地域でプルメスタ軍と戦っている地元勢力を支援するため派遣された。彼はフランス・カランガン率いる親中央政府民兵を補佐し、またプルメスタ勢力へ降伏を呼びかける任務にあたった。「サプタマルガ2作戦」は中央スマトラのゴロンタロ周辺を制圧する目的で立案され、先んじて新たな第1軍管区司令官ジャミン・ギンティン(インドネシア語版)中佐(PRRI外相となったシンボロン大佐の後任で、シンボロン時代には軍管区参謀長であった)の命により陸・空軍特殊部隊がシボルガやパダン・シデムプアン、タルトゥンなど一部都市を制圧した。部隊はアグス・プラスモノ中佐に率いられ、3月19日に行動を開始してほどなく市街および周辺地域を支配下に置いた。「サプタマルガ3作戦」はスラウェシ沖のサンギヘ諸島・タラウド諸島を奪還するため行われ、マグンダ中佐の指揮下で3月23日に始まり、難なく達成された。 「サプタマルガ4作戦」はルクミト・ヘンドラニンラト(インドネシア語版)中佐の指揮下で北スラウェシ州のケマ(インドネシア語版)奪還のため計画され、部隊が州都マナドに配備された。上記の三作戦が終了し部隊がスラウェシに集合したことで、「サプタマルガ4作戦」は「ムルデカ作戦」と改称された。作戦は6月16日に開始され、ケマを制圧した後で周辺地域の掃討に入ったが、プルメスタ軍にマナド南方を奪取されたため、マナド周辺の支配権を確立することになった。結局6月21日、マナドと北スラウェシのほとんどは中央軍の指揮下に入った。 「8月17日作戦」はアフマド・ヤニ(英語版)大佐に率いられ、西スマトラにおけるPRRIの活動、特にパダンのそれを鎮圧することを目的とした。1958年4月17日、ジャカルタ標準時午前5時から中央海軍の艦砲射撃と同空軍の二波にわたる空爆がタビン空港(英語版)を狙って行われ、その後インドネシア海兵隊がパダンの浜辺へ上陸した。作戦終了には半月ほどを要し、結果としてパダンからブティキンギまでの都市が中央軍の支配下となった。この作戦では前日に近海で軍艦を大きく動かすことで上陸地点をPRRI側へ悟らせないという欺瞞作戦が功を奏し、またパダン制圧後には周辺地域の掃討も続けて行われた。 「サダル作戦」はイブヌ・ストウォ(インドネシア語版)中佐に指揮される諜報作戦で、テガス・サプタマルガ・8月17日の三作戦の支援が目的であった。中央空軍のAT-16によって三作戦の実行中に行われた。
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