共産軍の脅威
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1932年12月12日、中ソ国交回復。コミンテルンは中国共産党に対し『中国共産党の急務は中国共産党を強化拡大することである』と命じた。1933年1月14日、中国政府軍閥は蔣介石の指導により反帝国主義運動すべてを弾圧し、口に抗日を唱えながら、実際は80万の大軍で中国ソビエト区域を攻撃するという欺瞞政策を行っているとして中国ソビエト省政府及び労農赤軍革命委員会は蔣介石軍閥打倒を発表した。 4月3日に江西省の省都南昌から共産軍が政府軍に対して決定的な行動を行いつつあり、事態は深刻であるとの報告が南京政府に提出され、翌4日蔣介石は南京から江西省に向かった。中国北部の状況が悪くなれば蔣介石は保定に戻ると伝えられたが蔣介石は北部に集中するために江西省の共産主義者を完全に制圧することを望んでいた。南京政府は2月から江西省においての損害が大きいこと及び一師長と多くの旅長と連隊長が死亡していたことを発表した。ある時には負傷した師長が自決し、彼の部隊が降伏し、また共産軍のために陳誠麾下の2個師が全滅したことが伝えられた。 4月10日頃になると蔣介石は日本軍に対する作戦より先ず江西省の共産匪賊(共産軍)を排除することに決め、湖南省主席・開封司令部長劉峙は広東・湖南・福建の部隊に加え作戦を促進させるため数個師を江西省に送るよう命じた。4月18日江西省には近代兵器を持つ共産軍が8個軍あることが判明し、それらは中央軍の攻撃をうまく防ぎ、江西省の3分の2近くを占拠し、隣接する省への脅威は増していた。江西省の農民は共産軍の略奪を被り、5月になって広東軍が共産匪賊を駆逐した時は耕作を始めるには遅すぎる季節となっており、備蓄されていた穀物が被災者に配られた。
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