国民党による抗日の顛末
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1932年12月に南京で開催された国民党中央委員全体会議では、中国北部における軍事行動・東北義勇軍に対する援助・日貨排斥の3点からなる積極的抗日案が提出され、決議されたことが確実視されていた。東北義勇軍は熱河作戦までの1年にわたり熱河地方を蹂躙した張学良麾下の10万余の勢力であった。実際に熱河省内における治安攪乱の動きが顕著となり、張学良麾下の正規軍も越境し、熱河省に侵入した。日満議定書によれば、満州国の領域内の治安維持は日本・満州両国が共同して行うものとしており、日本は熱河問題を条約上の義務としても認識し、大きな関心を寄せていた。 中国国内では山海関事件以後塘沽協定締結までの熱河省喪失の過程で、民衆の抗日意識が大きく高まり、日本軍の矢面に立った宋哲元の第29軍への支援のほか、2月16日北平において東北熱河後援協会が組織され、宋子文や張学良などが結成式に列席し、多額の義援金が送られたが、蔣介石は共産勢力の脅威に晒されるようになると、抗日を口にすることを禁じるようになった(後述の共産軍の脅威を参照)。『中国近現代論争年表』によれば3月6日「抗日を多言する者は殺して赦すなかれ」の命令を出している。また『東京朝日新聞』も蔣介石が「共産軍討伐完了前は絶対に抗日を言うことは許されず、違反すれば最も重い罰を受ける」と述べたことを伝えている。
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