国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)
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「国共内戦」の記事における「国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)」の解説
中国人民解放軍に対して、まともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蔣介石は、1949年1月16日に南京から広州への中央政府を撤退させたのを皮切りに、重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)へと撤退した挙句、中国大陸から台湾への撤退を決定し、残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には1949年12月7日に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。 このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による中華民国政府への軍事行動は一時的に停止する。なおこの間人民解放軍は朝鮮戦争に介入する一方でチベットに侵攻し、さらにベトナム民主共和国に武器の援助や軍事顧問の派遣を行い第一次インドシナ戦争に介入していた。 なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)は占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、人民解放軍との戦いで成果を上げている。 蔣介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蔣介石を支援した。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた。 白団による中華民国国軍への指導は1960年代末まで行われた。 詳細は「白団」を参照
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