台湾へ
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胡適(左)と(1958年) 訪台したドワイト・D・アイゼンハワー大統領と(1960年) 双十節式典にて(1966年) 1949年10月1日、毛沢東は北京で中華人民共和国を建国し、一方の蔣介石は重慶などを経て、12月に成都から、息子の蔣経国とともに飛び立ち台湾島の台北に遷都することになる(台北は臨時首都)。アメリカのトルーマン政権は蔣介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。 1950年1月、トルーマン大統領は台湾への不介入声明を発表し、アチソン国務長官もまたアメリカの西太平洋防衛ラインから台湾を除外した。しかし、この頃になると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったと批判する「中国の喪失」論が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、蔣介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。 蔣介石は、3月に総統への復任を宣言した。海南島、舟山諸島の失陥後、台湾は臨戦態勢に入った。蔣経国は各部隊を慰問して、たとえ死すとも領袖蔣介石に忠誠を尽くすとの血盟宣誓を行うキャンペーンを繰り広げており、台湾全土が事実上蔣介石と運命をともにすることを強要された。台湾全土が極度の緊張に包まれていく中、1950年6月25日、突如として事態が急変する。朝鮮戦争により、トルーマンは台湾不介入声明を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に第七艦隊を派遣した。朝鮮戦争に人民義勇軍が参戦したため、人民解放軍による中華民国への軍事行動は1950年10月から一時的に停止した。 1950年3月に再び総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし、同時期、中華民国が国連常任理事国として支持した国連軍の司令官で蔣介石と気脈が通じていたダグラス・マッカーサーが朝鮮戦争への中国国民党軍の投入などを強硬に主張してトルーマン政権に解任され、香港を抱えるイギリスは中国共産党が建国した中華人民共和国を承認するなど逆風も受けた。 トルーマン政権からドワイト・アイゼンハワー政権に交代するとアメリカは米華相互防衛条約を締結し、在台米軍(中国語版)も駐留し始め、これ以降中華民国とアメリカは冷戦下における同盟国として強固な関係を保ち続けた。一方で、1960年代に大躍進政策失敗で混迷する大陸への反攻を企図するも(国光計画)、当時のジョン・F・ケネディ大統領の支持を得られずに断念し、アメリカに対して強い不信感を抱くようになった。
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国共内戦ではアメリカからの軍事支援が大幅に削減された国民党側の敗北・共産党側の勝利に終わり、また中航・央航では従業員が集団で共産党側に投降した(両航事件(中国語版))こともあって、台湾へと遷都した中華民国でのフラッグ・キャリアとしての地位を民航が担うこととなる。とは言え、中国共産党=中華人民共和国の施政下となった中国大陸内の路線と市場を失った打撃は大きく、CIAによる援助で何とか命脈を保つことが出来た。 1950年には台湾島内の航空路線を開設すると共に、東京とシンガポール(香港とバンコク経由)にも就航。冷戦下に勃発した第一次インドシナ戦争や朝鮮戦争などのアジア諸国で勃発した戦争においてアメリカ軍向けの運送業務につく傍ら、同じくCIAの支援の下設立されたエア・アメリカとともに、東南アジアや大陸におけるアメリカや中華民国の諜報活動や秘密軍事活動の支援に従事する。
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「ユルバン・ジャン・フォーリー」の記事における「台湾へ」の解説
青森教会が再建された1913年(大正3年)11月、教区長のベルリオーズに「植物採集と司牧のどちらが大切か?」と問われたフォーリーは、青森教会の主任司祭を辞任し、植物採集を目的として台湾へ向かった。同年12月9日に基隆へ到着し、北部の大屯山や新店、烏来地方、中部地方の角板山や阿里山、南は高雄市まで植物採集を行った。 1916年(大正4年)5月、台北の教会に花蓮港に居住する日本人信者から「結婚式のための神父を派遣してほしい」との要請があったが、この教会の司祭は多忙により行けなかったので、フォーリーに代役を依頼した。同月29日、フォーリーは花蓮港に向かい結婚式を司式した後、露営しながら鳳林などの原住民族が暮らす地域へ入り植物採集を行い台北へ戻ったが、その直後から気分が悪くなり、頻繁に鼻血を出すようになった。周囲の勧めで台北病院へ行き診察を受けた結果、鼻腔深くにヤマビルが2匹侵入していたので、これを取り除いた。同年6月9日、再び診察を受け血液検査を行ったが異常は発見されなかったため、周囲は入院を勧めたがフォーリーは頑として断り教会へ帰った。しかし、病状は悪化の一途を辿り、同年7月1日より病床に臥せ、7月4日死去した。昏睡状態の中、無意識のうちにミサや祈祷をささげる動作や、植物標本の整理と思われる動作などを繰り返し、看護していた人たちに深い感動を与えた。
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台湾へ
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1947年、孫立人は部隊の訓練のために台湾へと送られた。孫立人はその際に広州市の公園に送られた3頭を伴って台湾海峡を渡った。この時点ではまだ阿美という名であるが、この3頭には林旺が含まれている。1頭はこの旅の中で病死したが、残った2頭は高雄市鳳山区の基地周辺で木材の輸送やその他の雑務をこなした。1951年にもう1頭の象が死亡する。林旺はビルマから遠征軍と行動を共にしてきた13頭の象の最後の1頭となった。 1952年、軍は林旺を圓山の台北動物園に寄贈することに決めた。林旺はここで人生の伴侶、「馬蘭」と出会うことになる。林旺はこの時はまだ「阿美」という名で呼ばれていたが、動物園は名前が女性的だという理由で「阿美」を「森林之王」、略して「林王」と改名した。ところが記者が聞き間違えたため、「林旺」という字で世間に公表されてしまった(王と旺は音は同じだが調子が異なる)。以降「林旺」が定着した。 林旺は台湾で最も有名で最も人気のある象となった。1983年には動物園は林旺のために66歳の誕生日パーティーを開催した。以降毎年10月の最後の日曜日に林旺の誕生日パーティーが開かれるようになり、数千人の来園者が参加するようになった。台北市長が参加することも珍しくなかった。1986年、動物園は圓山から木柵へと移設されることとなり、動物たちの引っ越し、特に林旺の姿を見ようと多くの台北市民が道路に押しかけた。 2003年のはじめ、林旺は後ろ左足の関節炎に悩まされるようになった。食欲が減衰し始め、様々な合併症に苦しむようになると急速に体調を悪化させ、2月26日、林旺は死亡した。 林旺の追悼式典は数週間にわたり開催され、数万人の訪問者を記録した。死後、林旺には当時の台北市長馬英九より名誉台湾市民の称号が授与された。総統陳水扁は「永遠の友、林旺へ」と綴られたカードとリースを贈っている。
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