アメリカの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:02 UTC 版)
1906年ドミニカ共和国は、ウロ大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国はアメリカ軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。 両国ではアメリカ軍への反発が高まり、アメリカも両国を維持する経済力や利益に限界があったため、財政を管理し保護国状態を続けたまま軍は撤退させた。ドミニカ共和国は1924年に、ハイチは1934年にアメリカ軍支配を脱し選挙が復活したが、ドミニカ共和国では1930年に陸軍参謀総長ラファエル・トルヒーヨが大統領に当選し以後30年にわたり国家を私物化する。トルヒーヨは1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し1日で17,000人から35,000人が殺された(パセリの虐殺)。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがなかった。 詳細は「米州相互援助条約」および「キューバ危機」を参照 「トントン・マクート」および「死の部隊」も参照 一方ハイチではエリート層を構成するムラートの政権が続いたが、多数派黒人の圧力が高まりクーデターや政争が続いた。1957年、黒人の庶民派フランソワ・デュバリエが大統領となったが、彼は独裁権力をふるうようになり1986年まで親子2代にわたる独裁政権がハイチを停滞させた。入れ替わるように、ドミニカ共和国ではトルヒーヨ政権が倒れた。反独裁の動きの中で、第二のキューバ革命勃発を恐れたアメリカはトルヒーヨを見放し、トルヒーヨは1961年に暗殺された。1965年のドミニカ内戦(英語版)(ドミニカ侵攻)後も軍事政権は続くがホアキン・バラゲール大統領が強権的ながらも政治と経済を安定させ、ドミニカ経済はアメリカの支援もあり回復していった。 「FRAPH」も参照 20世紀末以降、ドミニカ共和国はきわめて安定した政治のもと経済発展を続けているが、一方のハイチはデュバリエ政権崩壊後も不安定な政情が続き、世界最貧国の一つとなっている。
※この「アメリカの介入」の解説は、「イスパニョーラ島」の解説の一部です。
「アメリカの介入」を含む「イスパニョーラ島」の記事については、「イスパニョーラ島」の概要を参照ください。
アメリカの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:08 UTC 版)
「イラン・イラク戦争」の記事における「アメリカの介入」の解説
両国が殺戮の応酬を繰り返す中の1986年3月、イランを支援し続けるリビア(リビアは当時チャド・リビア紛争もしていた)とアメリカ軍機がシドラ湾で交戦、アメリカは4月にリビアを攻撃した。しかし12月、アメリカでイラン・コントラ事件が暴露されてしまった。大統領ロナルド・レーガンは窮地に立たされると、取引を持ちかけたのはイランだとして激しく非難した。クウェートへの攻撃を防ぐ為、クウェートのタンカーには星条旗を掲げさせ、アメリカ軍艦の護衛をつけた(アーネスト・ウィル作戦)。 対してイランは1987年1月に「カルバラ5号作戦」を実行。イラク領へ向け南部戦線に大攻勢をかけ、ようやくイラク軍に損害を与えることができた。また、イラク国内の反政府的なクルド人を支援して反乱を起こすよう仕向け、イラク軍の弱体化を狙ったが、これに対してイラク軍は反乱クルド人に化学兵器を使用したため、事態を知ったイラン軍の士気は下がった。 7月20日、国際連合安全保障理事会が598号決議を採択した。即時停戦ほか、公正な機関による戦争責任の調査、交戦を継続する場合には武器の輸出停止、経済制裁を行うという内容であった。先にイラクが受諾の姿勢を見せたが、8月からペルシャ湾に大量の機雷が浮遊するようになる。イラクは報復としてイランのタンカーを攻撃、9月からアメリカ軍のヘリコプターが出動したが、これに対してイランはアメリカのタンカーを攻撃した(タンカー戦争)。 またアメリカ海軍は10月、アーネスト・ウィル作戦としてクウェートが保有するアメリカ船籍の石油タンカーの護衛についていたが、タンカーが攻撃を受けたことから、報復として10月19日にイランの持つ2つの油田を攻撃した (Operation Nimble Archer 作戦) 。また、この作戦は歴史上最大の株価暴落 (ブラックマンデー) を引き起こした。 1988年2月、イランとイラクは相互都市攻撃を再開、ここにおいてアメリカ軍がペルシャ湾に出動、4月14日にイランとの間で交戦となった(プレイング・マンティス作戦)。さらに、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。イランは7月に安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日に停戦が発効した。 この戦争の間、ペルシャ湾岸諸国(サウジアラビア・クウェート・アラブ首長国連邦・カタール・バーレーン・オマーン)は湾岸協力会議(GCC)を結成し、地域の安定を求めた。GCCはアメリカが後ろ盾となり、各国にアメリカ軍兵器を輸出した(サウジアラビアは見返りとしてアメリカからF-15戦闘機などを購入することができた)。また、サウジアラビアは米国には秘密で中国の弾道ミサイルDF-3を導入してイランからの攻撃に備えた。 1989年6月、イランの革命の父ことホメイニーが死去した。翌1990年9月10日にはイラン・イラク両国間で国交が回復した。 なお、1990年の8月2日にイラクはクウェートに侵攻しており、翌年に湾岸戦争となった。
※この「アメリカの介入」の解説は、「イラン・イラク戦争」の解説の一部です。
「アメリカの介入」を含む「イラン・イラク戦争」の記事については、「イラン・イラク戦争」の概要を参照ください。
- アメリカの介入のページへのリンク