毛沢東の軍師
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1959年7月から8月にかけて開催された廬山会議(政治局拡大会議)において、彭徳懐が大躍進運動について毛沢東を批判した為に国防部長を解任された。林彪は彭に代わって国防部長に就任し、さらに党中央軍事委員会第一副主席に任命されて軍権を掌握した。ソ連をモデルにした軍の精鋭化および近代化を推進した彭徳懐と異なり、林彪は同じく彭徳懐の路線に不満だった毛沢東の意に沿う形で「延安(抗日戦争時代)精神」の復活を図るとともに、軍の政治教育を重視して毛沢東思想への恭順を推進した。林彪はこの一環として、1959年に解放軍向けとして『毛主席語録』の編集・刊行を命じた。こうした人民解放軍の路線転換は、文化大革命において軍が重要な役割を果たす契機となった。1964年に刊行された『毛主席語録』の増訂版には、林彪の序文が追加された。 1965年5月には導入から10年で軍の階級制度を廃止した。ベトナム戦争へのアメリカの介入によって緊張が高まったこの頃、総参謀長の羅瑞卿がアメリカとの戦争に勝つためには、ソ連との関係を改善させた上で最新鋭の兵器を集めて防空を中心とした迎撃とする意見を表明すると、林彪は「人民戦争」こそが勝つ手段でありソ連は「裏切り者」として対決すべきと批判し、最終的に羅瑞卿は同年12月に軍での指導的地位を失った。1965年の秋から翌年初にかけ、軍では毛沢東の著作や指示を行動指針とする方針が徹底された。 1966年5月に文化大革命が始まると、「毛沢東の軍師」として、多くの軍幹部を失脚に追い込んだ。また文化大革命の発動とともに『毛主席語録』が一般向けに大量に出版された。
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