毛沢東の通訳
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その後、中国外交部美洲及大洋洲事務司の副司長となる。1970年12月18日、毛沢東とアメリカのジャーナリストエドガー・スノーの通訳を務めた。この時、毛沢東が発した「和尚打傘」の語を完全に誤訳し、これをエドガー・スノーが更に思い入れたっぷりの英語にして雑誌タイムに記したことから、晩年の毛沢東の誤ったイメージを世界中に広めてしまった(エドガー・スノー#毛沢東の「和尚打傘」)。 1972年2月にニクソン大統領が訪中した際にも通訳を務め、周恩来、唐聞生、毛沢東、ニクソン、ヘンリー・キッシンジャー、ウィンストン・ロード(en)という席順であり、毛沢東の右隣であった。その際、キッシンジャーが毛沢東に「最近英語を勉強されているそうですね」と聞いたのに対して、それを否定する毛沢東に付け加えて、唐聞生は「毛主席は英語を1つ作りました。Paper Tiger(張子の虎)という語です」と言っている。1972年9月、日本の田中角栄首相訪中の際にも毛沢東の通訳を務め、田中首相の「(日中間の過去で)迷惑をかけた」という発言に文句を付け、日中共同声明で「中国人民に重大な損害を与えた」という表現を取らせるきっかけを与えたとされる。ただし「唐聞生が文句を言った」は毛沢東の冗談であるとも言われている。 1974年、江青と鄧小平が対決した風慶号事件の際、江青の言い分を王海容と共に毛沢東に伝える役割を与えられている。1975年10月21日のキッシンジャー訪中の際には毛沢東は病身であり、会談に際して王海容と共に毛沢東が起き上がるのを手伝っている。1976年には康生に与して毛沢東に四人組を誣告したとして、章士釗(zh)と喬冠華に告発されたが、四人組が失脚したために難を逃れている。
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