毛沢東の言葉・思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 20:30 UTC 版)
詳細は「毛沢東思想」および「毛主席語録」を参照 日中戦争時代の毛沢東の言葉 「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」 「日本はいま世界有数の強い帝国主義国である、一方で我が国は依然として弱国であり、軍事力・経済力・政治組織力などの面で敵に劣っている。だが日本は国土が比較的小さく、人力・軍事力・財力・物力にいずれも欠乏を感じており、長期の戦争には耐えられない。一方で中国はさしのぼる朝日のような国で、日本帝国主義の没落状態とは全く対照的である。中国の戦争は進歩的であり、この進歩性から中国の戦争の正義性が生まれている。この戦争は正義の戦争であるために全国的な団結呼び起こし、敵国人民の共鳴を促し、世界の多数の国々の援助を勝ち取ることができる。中国はまた大きな国で土地が広く、物産は豊かで、人口が多く、兵力も多いので長期の戦争を支えることができ、この点もまた日本と対照的である。」。 天皇制に対する毛沢東の言葉 戦争末期の1945年5月28日に日本共産党の代表だった野坂参三の演説原稿を読み、以下のような書簡を送っている。野坂は「人民大多数が天皇の存続を熱烈に要求するならば、これに対して我々は譲歩しなければならぬ。天皇制の問題は、戦後儘速(迅速)に人民投票によって決定される」という投票による天皇制容認の草稿を用意していたが、毛沢東はそれに対して「『儘速』の二文字は削除できると思われます」「私は日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期の内に出来るものではないと推測しています」とさらに慎重な態度を取っている。なお毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無く、戦犯問題についても野坂が広範なファシスト分子摘発を訴えたことに毛沢東は反対し、特高警察や思想警察でさえ「一部の積極分子のみ」に限定するのが良いと寛容な態度を取った。 「東風は西風を圧倒する」 1957年11月にモスクワを訪問した毛沢東は、「この世界には二つの風が吹いている。東風と西風だ。中国には、東風が西風を圧倒しなければ西風が東風を圧倒するという格言があるが、今日の世界情勢はまさに東風が西風を圧倒している(中国語: 东风压倒西风)、つまり、資本主義勢力に対して社会主義勢力は圧倒的有利に立っているということだ」と演説し、さらに「戦争が始まればどれだけの人が死ぬか考えてみよう。地球上には二十七億の人間が暮らしており、その三分の一、いや多ければ半分が失われる可能性がある……私が言いたいのは、たとえ最悪のケースで半分死んだとしても、半分は生き残るということだ。しかし、帝国主義は抹殺され、この正解はすべて社会主義になるだろう。数年も経てば、人口は再び二十七億に達するはずだ」と述べた。 日本社会党訪中団との会見における毛沢東の発言 1964年7月に日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。元大日本帝国陸軍中将の遠藤三郎と毛沢東の会見、元A級戦犯の久原房之助と毛沢東の会見でも毛沢東から似た発言がなされた。この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。毛沢東は、日本人を「日本軍国主義者」と「日本人民」に分けて考え、後者と統一戦線を組み、第三の革命とされた日本人民革命を起こさせようと考えていたという。沖縄返還を要求する日本人民の愛国闘争を支持するとも人民日報で述べていた。 「道は自分で切り開くもの」 毛沢東は、「道は自分で切り開くもの」と、過去の歴史の指導者と同じことをしようとは考えてはいなかった。ある時、護衛の者と山登りした際も昇ってきた道を引き返して下りようとはせず、別の道を見つけて下ったという逸話がある。 『実践論』の言葉 「ある事物を理解するためには、それを変革する戦いに参加しなくてはならない」 国務院副総理陳永貴に対する毛沢東の発言 1970年代に国務院副総理陳永貴が日中戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。 毛沢東選集の言葉 「革命とは、客を招いてごちそうすることでも無ければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなお上品でおっとりとした雅やかなものではない。革命とは暴力である。一つの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである。」 「和尚打傘」 アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーとの対談で"和尚打傘"(中国語: 和尚打伞)と述べた。これは「(傘をさした和尚は)髪もなければ、天も見えない(中国語: 无发无天)」と「やりたい放題(中国語: 无法无天)」をかけた歇後語(中国語版)(言葉遊び)であったが、通訳の唐聞生がアメリカ育ちであったために意味を汲み取れず、「和尚が傘をさす」と直訳した。このためスノーは、毛主席の言葉を「自らを、傘を手に歩む孤独な行脚僧とイメージしている」などと紹介し、「なにものにも束縛されず、自分の道を歩んできた」という毛沢東の本来の意図とはむしろ逆のメッセージが全世界に発信された。
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