毛沢東主義派結成まで
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「プラチャンダ」の記事における「毛沢東主義派結成まで」の解説
1971年、ネパール共産党(プシュパ・ラル派)に入党。当初より武装闘争の必要性を感じていた。ネパール共産党の創立者で当時毛沢東の影響を受けていたプシュパ・ラル・シュレスタの影響を受ける。 1979年、ネパール共産党チトワン郡委員会委員に選出。1981年、ネパール共産党第四会議派(Chautho Mahadhibeshan)専従党員となる。同年、全ネパール青年委員会郡書記局員。1983年、全ネパール青年委員会中央委員会会長。 1984年、ネパール共産党マシャル派(急進的な地下政党)の中央委員会委員となり、1985年には同派の政治局員となる。 1989年、モハン・バイディヤ(キラン)が武装闘争の失敗でマシャル派総書記を辞任したため、プラチャンダは後任のマシャル派総書記に就任。この時の同志にはキランのほか、チャンドラ・プラサッド・ガジュレル、デヴ・グルン、クリシュナ・バハドゥル・マハラなど現在毛沢東主義派の幹部になっている者もいた。マシャル派は「ネパール共産党第四会議派」と合同し、「ネパール共産党統一センター派」(エカタ・ケンドラとも。これも地下政党)を設立。しかし1991年、統一センター派は武装闘争に消極的なニルマル・ラマ派と積極的なプラチャンダ派の同名の二つの組織に分裂した。統一センター派の公然組織・統一人民戦線ネパールも分裂し、プラチャンダ派の公然組織の議長には「ネパール共産党マサル派」を離脱して「統一センター派」に参加したバーブラーム・バッタライが就任する。バッタライは後に毛沢東主義派のNo.2となる。 1995年3月、プラチャンダは自派の「統一センター」をネパール共産党毛沢東主義派(いわゆるマオイスト)に改称し、総書記に就任する。
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