毛沢東時代
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詳細は「大躍進政策」および「文化大革命」を参照 1950年代から、ポル・ポトは頻繁に中国を訪問して、中国共産党の党員から、政治的、軍事的な教育、特にプロレタリア独裁の理論についての教育を受けていた。1965年11月から1966年2月まで、陳伯達や張春橋といった共産党の高官から、中国共産主義革命(英語版)、階級闘争、コミンテルンなどを教育された。またポル・ポトは鄧小平や彭真といった他の党員にも会った。特に政治的な粛清に関する康生の講義に感銘を受けていた。 1970年に、ロン・ノルがシハヌークを追放して、シハヌークは、ポル・ポトが訪問していた北京に逃亡した。中国共産党の助言で、クメール・ルージュはシハヌーク支持に立場を変え、カンプチア民族統一戦線(英語版)を設立した。伝えられるところによれば、中国は1970年だけで民族統一戦線に400トンの軍事的な援助を与えたとされる。1974年4月に、シハヌークとクメール・ルージュの指導者イエン・サリとキュー・サムファンが北京で毛沢東と会った。毛沢東はクメール・ルージュが提案した政策に同意したが、内戦に勝った後の新カンボジアにおいてシハヌークを社会的に排除することには反対した。1975年に、クメール・ルージュはクメール共和国を打倒して、カンボジア大虐殺を開始した。 1975年6月に、ポル・ポトとクメール・ルージュの構成員は北京で毛沢東と会い、毛沢東はポル・ポトに持論の「无产阶级专政下继续革命理论(プロレタリア独裁の下で革命を継続するための理論)」を説き、姚文元が執筆した2つの記事を勧め、カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、ウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリンが執筆した30冊を超える本を贈った。 会合中に、毛沢東が以下のようにポル・ポトに述べた。 We agree with you! Much of your experience is better than ours. China is not qualified to criticize you. We committed errors of the political routes for ten times in fifty years—some are national, some are local…Thus I say China has no qualification to criticize you but to applaud you. You are basically correct…During the transition from the democratic revolution to adopting a socialist path, there exist two possibilities: one is socialism, the other is capitalism. Our situation now is like this. Fifty years from now, or one hundred years from now, the struggle between two lines will exist. Even ten thousand years from now, the struggle between two lines will still exist. When Communism is realized, the struggle between two lines will still be there. Otherwise, you are not a Marxist...... Our state now is, as Lenin said, a capitalist state without capitalists. This state protects capitalist rights, and the wages are not equal. Under the slogan of equality, a system of inequality has been introduced. There will exist a struggle between two lines, the struggle between the advanced and the backward, even when Communism is realized. Today we cannot explain it completely. ポル・ポトは以下のように答えた。 The issue of lines of struggle raised by Chairman Mao is an important strategic issue. We will follow your words in the future. I have read and learned various works of Chairman Mao since I was young, especially the theory on people's war. Your works have guided our entire party. 一方で、1975年8月のもう一つの会合において、中国の首相周恩来は、中国の大躍進政策の失敗を引き合いに、シハヌークとイエン・サリ、キュー・サムファンを含むクメール・ルージュの指導者に対し、過激に共産主義を推し進める危険性について警告した。周恩来は大混乱を起こした失敗を繰り返さないように促した。シハヌークは後に、キュー・サムファンとイエン・チリトが「信じられないほど優れた笑顔」でしか反応しなかったことを思い出した。 大虐殺中、中国はクメール・ルージュの主要な国際的パトロンであり、15,000人以上の軍事的な助言者とその他の外部からの援助のほとんどを与えた。クメール・ルージュを支援した外国人の少なくとも90%が中国出身とされ、1975年だけでも10億ドルの無利息の経済的、軍事的な支援があったとみられ、中国から一国に与えた支援の中で最大だった。しかし、1976年、一連の内部危機で、北京がクメール・ルージュの政策に対して実質的な影響を及ぼすことが出来なくなった。
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毛沢東時代
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「中国の特色ある社会主義」の記事における「毛沢東時代」の解説
社会主義の第一段階の考え方は中国が経済改革を行う前に構想された。1958年11月10日の第一回鄭州会議で産物関連の必要性について話し合った際、中国共産党中央委員会の会長であった毛沢東は「中国は社会主義の初期段階にあった」と述べた 。毛は決してその考えに関して細かく練る事はせず、その任務は毛の後継者に任されたのであった。
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毛沢東時代(1949年 - 1978年)
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「中華人民共和国の歴史」の記事における「毛沢東時代(1949年 - 1978年)」の解説
1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、中華人民共和国は清朝を継承したとして、清朝の版図を中華人民共和国の版図だと主張しており、また、モンゴル帝国が支配した世界最大の版図を、そのまま元朝が支配した版図とみなして、元朝の版図も中華人民共和国の版図だと主張しているが、清朝は満洲人の国家であり、元朝はモンゴル人の国家であって、漢人の国家ではない。 崩壊状態に陥った南京国民政府は蔣介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。 建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。 中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させたことが、中国の解放軍出版社より出版された国情手冊に記されている。一方で、汚職反対・浪費反対・官僚主義反対を掲げる「三反運動」が展開され、政府側の腐敗を取り除こうとした。そして、こうした腐敗の原因が資本家に帰され、「五反運動」で資本家階級への締め付けが強まった(三反五反運動)。 1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。 国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め始め、中国人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動にて知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった(中華人民共和国大飢饉)。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる。チベットの最高指導者、ダライ・ラマ14世はインドに亡命し、未だ帰還していない。 その後劉少奇国家主席が経済調整を行うが、この行いに毛沢東と支持者が猛反発し、1966年に毛沢東は文化大革命を発動させ劉少奇とその支持者らを政治の舞台から追い出した。 この文化大革命は政治だけでなく一般にもあまりにも多大な影響を与え、青少年によって結成された紅衛兵が反革命派とされた人間をつるし上げたりしていた。文化大革命は後期になると国内の内乱状態を引き起こした。最終的に文化大革命は1976年の毛沢東死去で終結した。文化大革命では各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人~2000万人と言われているが実際には、8000万人程度が犠牲になったと考えられている。 その後は一旦華国鋒が後を継いだが失脚し、鄧小平が政権を握った。
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