中華人民共和国の建国
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1949年10月1日、中華人民共和国の建国が北京で宣言された。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党は朝鮮戦争での軍事介入やアジア・アフリカ会議への参加など積極的な外交活動を行った。 当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年のフルシチョフによるスターリン批判以降はソビエト連邦共産党との関係が悪化し、1960年からは公開論争にまで発展し(中ソ論争)、武力衝突までに至った。
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中華人民共和国の建国
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1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。 中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」は、中華人民共和国が「人民民主主義国家」であるとした。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいなかった。つまり、建国の段階では中華人民共和国は中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかった。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めた。 とはいえ、毛沢東は社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っている。建国直前の1949年7月には「向ソ一辺倒」を宣言し、建国まもない1949年12月から1950年2月にかけてソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、中ソ友好同盟相互援助条約を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させていたスターリンの意向を受けて台湾侵攻を後回しにして中国人民志願軍を北朝鮮に派遣。この戦争で、毛はソ連で実戦やロシア語を学んで軍司令官の彭徳懐の通訳になっていた長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。 朝鮮戦争勃発直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった。この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。毛はまた、1951年末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「三反運動」を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「五反運動」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた。
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