中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 09:04 UTC 版)
「国共内戦」の記事における「中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失」の解説
三大戦役後、毛沢東率いる共産党は総攻撃を仕掛けて国民党が拠点を置く大都市部を相次いで占領した。1948年時点で中華民国は主要都市として全国の12都市を直轄市に指定しており、三大戦役終結直後の1949年2月1日時点ではソ連軍占領下の大連と人民解放軍に占領された哈爾浜、瀋陽、天津、北京を除く7都市を未だに支配していた。だが、三大戦役で主戦力を失っていた国民党にはもはや共産党の侵攻を食い止める余力がなくなっていた。 1949年1月、蔣介石が三大戦役での敗走の責任をとって総統を辞任すると、副総統だった李宗仁が総統(代理)に就任し、同年4月1日に共産党との和平交渉団を南京から北平(北京)に派遣して北平和談(中国語版)を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。しかし、同年4月20日に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂し、同年4月23日には渡江戦役で人民解放軍によって首都・南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)を人民解放軍がなし崩し的に占領していった。さらにアメジスト号事件(4月20日)においてはアヘン戦争以来中国に駐留していたイギリス艦隊を撤退させた。 国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。そのため、共産党は中国大陸からの国民党勢力一掃を目指して広州(10月14日)、重慶(11月30日)、成都(12月27日)と国民党の拠点を相次いて占領し、さらに旧第二次東トルキスタン共和国の残存勢力と協力して新疆の全域を1950年春までに占領した(新疆侵攻)。そのため、1950年1月の時点で国民党に残された台湾以外の拠点は、西南軍政長官公署(中国語版)の支配下にある西康省の西昌一帯と東南軍政長官公署(中国語版)の支配下にある海南島(海南特別行政区)のほか、江蘇省(嵊泗県 )、浙江省(舟山群島の大部分及び大陳列島など)、福建省(金門島、馬祖列島及び烏坵)、広東省(万山群島)沿岸の島々のみとなった。 これを受け、人民解放軍は国民党の反攻拠点となる西昌一帯と海南島の制圧を目指し、1950年3月から本格的な軍事作戦を展開した。その結果、西昌は西昌戦役(中国語版)によって同年4月7日、海南島は海南戦役(中国語版)によって5月1日に中華人民共和国の支配下に入り、国民党は中国大陸における大規模な軍事作戦を展開するための拠点を全て喪失した。これにより、中華民国国軍による中国大陸への反攻は事実上不可能となり、国共両軍による全面的な戦争は事実上収まることとなった。なお、同時期には舟山戦役(中国語版)と万山群島戦役(中国語版)が勃発しており、1950年5月16日に舟山群島、8月4日に万山群島が人民解放軍によって占領され、終結している。さらに人民解放軍は10月にチベット地域で事実上独立していたチベットに侵攻した(チャムドの戦い)。 その後も雲南省のビルマ、ラオス国境地帯では雲南反共救国軍(中国語版)によるゲリラ戦が引き続きを行われた。雲南反共救国軍は1951年(民国40年)5月に滄源、耿馬、瀾滄、双江の4県で大規模な攻勢に出るが、人民解放軍の反撃によって7月までにビルマやタイ北部に脱出した。その後、国連決議に伴って雲南反共救国軍の兵士たちは武装解除の上、台湾に退去することが決まり、1954年(民国43年)までに6,986人が台湾に退去した。しかし、一部の兵士は現地に残留し、雲南人民反共志願軍を結成して1960年(民国49年)までゲリラ戦を行った。その後、雲南人民反共志願軍兵士のうち4,200人は台湾に退去したが、一部はタイ北部に残留した。残留した元国民党兵士たちは黄金の三角地帯で麻薬の製造や密輸を行っていたが、1972年にタイ王国軍に帰順して共産ゲリラの掃討作戦に参加している。ゲリラ掃討後、元国民党兵士たちは武装解除された上でタイ政府から居住権が与えられ、観光や農業に従事するようになった。(2017年)現在でもメーサロン(英語版)近辺には末裔が居住している。
※この「中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失」の解説は、「国共内戦」の解説の一部です。
「中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失」を含む「国共内戦」の記事については、「国共内戦」の概要を参照ください。
- 中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失のページへのリンク