和談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 00:37 UTC 版)
徳治3年(1308年)、後二条は在位7年の後に崩御し花園が即位、伏見の院政が復活した。しかしここで皇太子にたてられたのは、後二条皇子の邦良親王ではなく大覚寺統の後二条の弟・尊治親王(後醍醐天皇)であった。これは邦良親王が当時幼い上に病弱であったためとも言われているが、天皇より9歳年上の皇太子という異例の措置であり、邦良親王の成長とともに皇統の再分裂を危惧した後宇多は、邦良親王を尊治親王の次の皇太子とする意思を明確にした。 文保元年(1317年)伏見が崩御すると次の皇太子を巡り両統の争いが激しくなり、仲裁を期待された幕府は、以後の皇位継承に一定の基準を定めることを目的に、 花園が皇太子尊治親王に譲位すること 今後、在位年数を十年として両統交替すること 次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見皇子の量仁親王(光厳天皇)とすること の3点を両統に示し、以降は両統迭立することで和解が成立したといわれている。 この和解を文保の和談という。
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