中華人民共和国の成立以降の上海と租界
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「上海租界」の記事における「中華人民共和国の成立以降の上海と租界」の解説
租界都市上海の歴史が閉じ、まもなく国共内戦が勃発し、上海は再び戦禍を被ることとなった。1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、数10万人の外国人資本家や、秘密結社の構成員、文化人・技術者・熟練工などが、香港に渡って行った。そのため、それまで珠江流域を商圏とするローカル植民都市に過ぎなかった、イギリスの租借地である香港が、かつての租界都市上海の地位を承継し、繁栄を謳歌するようになった。 1960年代に起きた文化大革命で上海も文化的にも荒廃し、その後1976年に鄧小平による改革開放政策が始まると、香港に隣接する深圳市に経済特区が建設され、香港は繁栄を謳歌するようになり、NIEsの一雄として急成長した。これに対してかつての租界都市上海は、1980年代末までは、ひたすら中央政府に利益を上納するばかりで、新規の投資は行えなかった。町並みは人口増の圧力によりスラム街化した。 急成長する香港に対して、その影は薄くなる一方だった。ところが、1980年代末に、改革開放路線に拍車がかかると、上海の再開発という問題がクローズアップされた。1990年4月には「浦東新区」建設が決定された。これは、黄浦江を挟んでこれまで開発がされなかった旧租界地区(浦西地区)の対岸である浦東地区の350平方キロメートル(上海租界の約11倍)を再開発し、深圳などの4特区を上回る一大産業地帯を建設しようとするものである。 1992年10月には、中国共産党第14回党大会において「社会主義市場経済」が提起され、よりいっそう大胆な改革開放が求められるようになっており、浦東地区が享受する優遇策には、深圳などの従来経済特区が享受してきたもの以上のものがあった。 外資の導入や外国企業の進出も活発化し、さらに世界各国の集まった上海万国博覧会を行い、上海市は中華人民共和国最大の観光都市、産業都市、文化都市、国際都市として復活した。
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