中国国民党による一党独裁時代の台湾
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中国国民党による一党独裁時代の台湾(ちゅうごくこくみんとうによるいっとうどくさいじだいのたいわん)では、1945年の中華民国による台湾光復から、1996年の直接総統選挙が行われるまでの間、中国国民党による一党独裁体制下にあった台湾を指す。
- ^ a b “台湾の国際法的な地位に関する説明” (PDF). 中華民国外交部. 2011年4月9日閲覧。
- ^ a b 劉文甫. “戒厳令解除と外貨管理自由化”. アジア経済研究所. 2011年4月9日閲覧。
- 1 中国国民党による一党独裁時代の台湾とは
- 2 中国国民党による一党独裁時代の台湾の概要
- 3 関連項目
台湾国民政府
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「台湾国民政府」を参照 1950年:蔣介石が中華民国総統職に就任。中華民国・台湾国民政府の活動が本格化。アメリカが第七艦隊を台湾海峡に派遣。 1951年:米華共同防衛相互援助協定調印。 1952年:日本との平和条約(日華平和条約)調印。中国青年反共救国団の設立、蔣経国が主任。日本語と台湾語の教学を厳禁。 1954年:アメリカとの相互防衛条約調印。 1955年:台湾国民政府が浙江省・大陳列島を喪失。これにより、今日の台湾地域(広義の台湾)が形成される。 1958年:金門砲戦勃発。台湾海峡緊迫。 1964年:吉田茂元首相が台湾訪問。 1967年:国家安全会議と国家安全局が発足。 1971年:国際連合総会にて、アルバニア提案の「国府追放、北京招請」案が可決され、台湾国民政府が「中国」の代表権を喪失。同時に国連から脱退。 1972年:蔣経国、行政院長に就任。日本と中華人民共和国の国交樹立により日華平和条約が終了。台湾国民政府が日本との国交を断絶。 1973年:「十大建設」開始。 1975年:蔣介石死亡。厳家淦副総統が総統に、蔣経国が中国国民党主席に就任。 1978年:蔣経国が総統に就任。 1979年:米中国交樹立。アメリカ合衆国が台湾国民政府と国交を断絶。美麗島事件が勃発。 1981年:鄧小平が「一国家二制度」に基づく中国と台湾の統一を提案。 1986年:民主進歩党の結成。 1987年:38年続いていた戒厳令を解除。 1988年:蔣経国死去。李登輝副総統が本省人として初めて総統に就任。 1989年:李登輝総統、「現実外交(柔軟外交)」を宣言。戒厳令解除後初めての統一選挙で民主進歩党が躍進。 1990年:民主進歩党が「台湾の主権独立」決議案採択。総統府に国家統一委員会が発足。 1991年:中国共産党を反乱団体と定義していた憲法の付属条項を廃止。 1993年:連戦が行政院長になり、李登輝が国民党政権の「党」「政」「軍」「特」を全面掌握。シンガポールで台湾と中国の窓口交流機関代表が初会談。 1995年:中国共産党江沢民総書記が台湾政策8項目を提案、台湾李登輝が中国に対する6項目の逆提案、その後李登輝が訪米し、台湾・中国間が緊迫。
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