ペレストロイカ
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ソビエト連邦 |
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最高指導者 共産党書記長 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
標章 |
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
政治 |
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軍事 |
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場所 |
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イデオロギー |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
歴史 |
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ペレストロイカ(露: перестройка [pʲɪrʲɪˈstrojkə] ( 音声ファイル) ピリストローイカ、ロシア語ラテン翻字: perestroika)は、ソビエト連邦でゴルバチョフによって、1988年1月1日から本格的に始まり、守旧派による1991年のクーデター発生までにグラスノスチと共に進められた政治体制の改革[1]。ペレストロイカで進んだ市民意識によって、クーデター自体は失敗したが、ペレストロイカが中止され、ソ連解体に繋がった[1]。ロシア語で「再構築(再革命)[注釈 1]」を意味する。外交では冷戦終結、初の核軍縮条約、ドイツ統一がなされ、ソ連国内では表現の自由、集会の自由、信教の自由、出国の自由、選択肢のある選挙、複数政党制など、市民の権利と自由が獲得された[1]。
ゴルバチョフが 「ペレストロイカは革命である。」と発言したことからゴルバチョフ革命や第2の革命とも呼ばれた[2]。
概要
ソビエト連邦共産党による一党独裁制が60年以上も続いたことにより、硬直した政府を立て直すため、1985年に共産党書記長(最高指導者)に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった[3]。
元々は経済面のみの改革だったがチェルノブイリ原子力発電所事故の影響で政治面の改革も行うようになる[4][5]。
1987年のロシア革命70周年記念の軍事パレードの際、ロシア語で「民主主義、平和、ペレストロイカ、加速[注釈 2]」と書かれた大きな立て看板がグム百貨店に立てかけられ、テレビ中継でアナウンサーが読み上げた[6]。以降、ソ連国内に広く浸透していった。 ゴルバチョフは、社会主義体制の枠内での改革を志向したが、市場導入が逆に経済混乱につながり、物価高に物資の不足により高まる国民の不満や共産党内の保守層が行ったソ連8月クーデターを背景に、社会主義体制そのものの放棄と、連邦制の崩壊につながった。
現在では、共産圏の民主化を進めるとともに冷戦を終結させた政策として、主に旧ソ連以外の各国で高く評価されている。英語圏の国では「リストラクチャリング」[注釈 3]や「リコンストラクション」[注釈 4]と訳され、1980年代後半のイギリスのサッチャー政権やアメリカ合衆国のレーガン政権で行われた行財政改革・産業構造の転換政策あるいは民間企業の組織再編成などを指して使われた。これは、日本で1990年代後半頃から使用されている「リストラ」の語源となった単語である。
改革早々にウランの生産量が4倍以上に膨れた。終盤のエリツィン時代に外国銀行の干渉を受けて官公事業が非民主的に払い下げられた。カザフスタンの分離に伴い、ロシア連邦となってからウラン生産量は改革前の水準へ戻った[7]。
コーカサスではカタストロイカと呼ばれる。民族意識が高揚し、1987年半ばにアゼルバイジャン内で起こったナゴルノ・カラバフ紛争を皮切りにこの地域でも民族対立が表面化した。ナゴルノ・カラバフの問題は2023年に一応の解決がつくこととなったが、依然として紛争は絶えない[8]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c “「ペレストロイカで議論された課題の多くは未解決のまま」 ゴルバチョフ氏インタビュー詳報:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2022年2月1日閲覧。
- ^ “「ペレストロイカとは何か・シェワルナゼ回顧録を中心に」”. 時事総合研究所. 2023年4月4日閲覧。
- ^ 日本放送協会. “ぼくは見た、国の消滅を | 特集記事”. NHK政治マガジン. 2022年11月13日閲覧。
- ^ Shimazaki, Susumu; 島崎晋 (2000). Me kara uroko no Tōyō shi (Dai 1-han ed.). Tōkyō: PHP Kenkyūjo. ISBN 4-569-61241-5. OCLC 47093387
- ^ Ikki ni yomeru sekai no rekishi = World history at a glance : Dokokara yondemo omoshiroi. Satoshi Tsuruoka, 聡 鶴岡. Tōkyō: Chūkei Shuppan. (2004). ISBN 4-8061-2125-8. OCLC 675126059
- ^ Soviet October Revolution Parade, 1987 Парад 7 ноябряYouTube(17分40秒あたり)
- ^ Nuclear Energy Agency/ International Atomic Energy Agency, "The Red Book Retrospective" and "Uranium: Resources, Production and Demand"
- ^ 廣瀬陽子「ペレストロイカからカタストロイカへ」/ 北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』明石書店 2006年 132ページ
関連項目

1988年に発行された切手

- 改革開放 - 中国における改革運動
- ドイモイ - ベトナムにおける改革運動
- グラスノスチ - ペレストロイカと一体で展開された改革運動。「情報公開」と訳される。
- リストラ#本来のリストラ(組織再編) - 同じ意味の英語(re-structuring)。
外部リンク
ペレストロイカ
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「ミハイル・ゴルバチョフ」の記事における「ペレストロイカ」の解説
本人の南ロシアなまり(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「Процесс пошел(プロツェース・パショール,プロセスは始まった=改革が始まった)」という言葉を多用、正規的なロシア語表現ならば「Процесс начался(プロツェース・ナチャルシャー)」となるが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行。次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。 書記長就任から8か月後の1985年11月、スイス・ジュネーヴにて、当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンと米ソ首脳会談を行う。この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。1986年4月、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。4月に発生したチェルノブイリ原発事故を契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進する。当初、レーガンや西側の保守派はゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消されることになった。 経済改革では、社会主義による計画経済・統制経済に対して、個人営業や協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、1987年8月に国営企業法を制定した。ペレストロイカは次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。その中で、自らが電話でその解放を伝えたサハロフ博士をはじめとするソ連国内の反体制派(異論派)が政治的自由を獲得し、スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。ゴルバチョフは自身をソビエト連邦の崩壊のその日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」「新世界秩序」 といった新たな価値によって国内政治および外交政策において大胆な転換を実行していった。 1986年7月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタンからの撤退と中ソ関係改善を表明した。10月にはアイスランドのレイキャビクにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカの大統領ロナルド・レーガンが掲げていた戦略防衛構想(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。このことが、1987年12月に成立する中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に繋がっていく。 ゴルバチョフは信仰の自由を認める姿勢を打ち出し、1988年4月29日にロシア正教会の総司教ピメンら6人の指導者と会談した。ソ連政府の最高指導者が教会指導者と会談したのは1943年以来のことで、ゴルバチョフは会談で、ソ連が過去に教会と信者に過ちをおかしたことを認めた。 1988年10月、ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任し、国家元首となる。 同年12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置する憲法改正法案が採択される。この頃より守旧派に接近を余儀無くされる。 1990年3月、求心力が低下したゴルバチョフは複数政党制と強力な大統領制を導入(これによりこれまでの書記長制を廃止)する憲法改正法案を人民代議員大会で採択させた。 3月15日、人民代議員大会において実施された大統領選挙において、ゴルバチョフは初代ソビエト連邦大統領に選出(これにより、ソビエト連邦の国家最高責任者は書記長から大統領に移行した)されたが、ゴルバチョフがロシアに導入した1991年ロシア大統領選挙のような直接選挙では無く、人民代議員大会による間接選挙で選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった。副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を電撃的に辞任して世界中を震撼させた。ゴルバチョフはゲンナジー・ヤナーエフ政治局員を副大統領に指名した。 一方で人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任されたボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、1991年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の大統領となり、さらには共産党から離党を宣言して党外改革派の代表としてゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。 国内政策での保守派への妥協にも関わらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来のブレジネフ・ドクトリンによる強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春で起こったソビエト連邦軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。事実、1989年のポーランドにおける円卓会議を起点とする一連の東欧革命に関して、ソ連は軍事的行動を行わず、1990年には東ドイツの西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。ゴルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者であるエーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツのヘルムート・コール首相が示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。 冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。ゴルバチョフ自身も保守派への配慮から1991年2月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立革命に対するソビエト連邦軍・治安警察による武力弾圧を承認せざるを得なかった(血の日曜日事件)。 また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、1989年5月に中国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。これは六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。1990年8月の湾岸戦争では国際連合安全保障理事会で武力行使容認決議に賛成して米ソの和解を演出する一方、アメリカとイラクの停戦を仲介した(ゴルバチョフの案は当時のアメリカ軍統合参謀本部議長コリン・パウエルとアメリカ中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフによって修正され、協定が結ばれた)。 1991年4月にはソビエト連邦最高指導者として初めて日本も訪れ、海部俊樹首相(当時)と日ソ平和条約の締結交渉や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。 1990年11月7日の革命記念日にモスクワの赤の広場で軍事パレードが行われていたとき、ゴルバチョフ暗殺未遂事件が発生した。労働者のデモンストレーションの最中、行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進がレーニン廟(この講壇上にソ連の指導者が並んでいた)に近づくと、ゴルバチョフめがけて2発の銃弾を放った。しかし、弾は外れた。シモノフがライフル銃を取り出してすぐに護衛に発見され、狙いを定めている間、将校が走ってきて銃身を殴ったため、弾は空に逸れた。シモノフはデモに参加していた群衆に取り伏せられ、すぐさま逮捕された。彼は、1991年のソビエト連邦の崩壊前最後のソビエト時代の暗殺者であり、その後4年間を精神病院で過ごした。ソ連中央テレビは一時放送を中断し、午前11時25分に通常放送を再開した。
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