書記長就任とは? わかりやすく解説

書記長就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 22:06 UTC 版)

エゴン・クレンツ」の記事における「書記長就任」の解説

1989年クレンツ中央選挙管理委員会委員長として地方選挙の不正の責任者となった同年6月中華人民共和国起きた虐殺事件である天安門事件については「秩序維持するために何か行われたようだ」と述べたとどめた。 しかし1980年代半ばソビエト連邦指導者地位就いたミハイル・ゴルバチョフ指導の下始まったソビエト連邦民主化ペレストロイカ)の影響は、他の東ヨーロッパ諸国同様、東ドイツ避けて通れなかった。いち早く改革進めていたハンガリー人民共和国1989年5月2日オーストリアとの国境線鉄条網撤去着手し鉄のカーテン綻ぶと、多く東ドイツ市民夏の休暇利用してハンガリーへと出国した治安青年担当の党書記でもあったクレンツは、8月ホーネッカー出国者数を報告し、党の政治局大量出国問題討議するよう進言したが、ホーネッカークレンツ進言耳を貸さずクレンツ長期休暇命じて10月まで政権中枢から遠ざけた。その直後8月19日ハンガリーでは指導部改革派市民グループの手によって汎ヨーロッパ・ピクニック起き東ドイツ市民オーストリア経由西ドイツ亡命するようになった国民大量脱出国内民主化運動頻発したが、ホーネッカー強硬手段取って弾圧する方針であった。しかし、10月7日建国40周年のために東ドイツ訪れたゴルバチョフ明らかに改革行おうとしないホーネッカーに対して不満げ態度取り帰国時にはクレンツ党幹部に対して行動したまえ」とホーネッカー退陣させるよう示唆した。 これを受けたクレンツギュンター・シャボフスキーSED政治局員ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部ソ連指導部とも連絡取りながらホーネッカーの失脚工作進め1989年10月17日政治局会議ホーネッカー書記長解任動議可決させた。翌日付で正式に辞任したホーネッカーの後を継いでクレンツ社会主義統一党書記長に就任した。10月24日には人民議会によって正式に国家元首である国家評議会議長選出され国防評議会議長兼任した思うところがあったのか、妻子連れて東ベルリン郊外にある政治局員専用住宅地区(ヴァルトジードルング(ドイツ語版))から引っ越した

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書記長就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:34 UTC 版)

ユーリ・アンドロポフ」の記事における「書記長就任」の解説

1982年11月10日ブレジネフ死去したアンドロポフ葬儀委員長就任し大勢決した共産党官僚組織背景とするチェルネンコ対しアンドロポフ背景には、長く議長務めたKGBと、政治局員ウスチノフ始めとする軍があった。後継書記長決め政治局会議ではウスチノフアンドロポフ推薦したとされる一方、正式の会議前に根回し済んでおり、自身の不利を悟ったチェルネンコは「第二書記としての処遇を受けることと引き換えに、自らアンドロポフ推薦したとの説もある。11月12日ソ連共産党中央委員会書記長に就任アンドロポフの書記長就任は、元KGB議長という肩書ハンガリー動乱でのアンドロポフ役割鑑み西側諸国からは警戒感をもって受け止められた。1983年6月からは憲法上の国家元首である最高会議幹部会議長兼任更には国防会議議長兼ねたチェルネンコらはアンドロポフの書記長就任に当たり、前任ブレジネフ基本路線踏襲することを求めた。これに対しアンドロポフは、基本的にブレジネフ路線継承しつつも直ち軌道修正図ったアンドロポフは、前述通り政敵チェルネンコ第二書記として偶し、彼と政治局職務分担したアンドロポフ政治局活動監督し国防内政・外交対外貿易担った一方でチェルネンコは、KGB内務省政党機関・イデオロギー・プロパガンダ・文化・科学高等教育などと多岐に渡る分野所掌することとなったアンドロポフまた、若い世代改革派多用した同郷若手党活動家だったミハイル・ゴルバチョフ登用しペレストロイカへの道筋をつけた。政治局員には、ヘイダル・アリエフヴィタリー・ウォロトニコフ書記にはニコライ・ルイシコフエゴール・リガチョフ登用した。自身古巣KGB議長にはヴィクトル・チェブリコフ任命した。 しかし、この段階でアンドロポフ政権権力基盤は、人事異動主として現業部門大臣次官あるいは党中央部長等のいわゆる中堅幹部クラス中心であることに加えアンドロポフ自身健康状態が必ずしも良好でないこともあり、完全に確立しているとは言え状況無かった

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書記長就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:16 UTC 版)

ミハイル・ゴルバチョフ」の記事における「書記長就任」の解説

1985年3月チェルネンコ死去受けて党書記長就任する54歳)。チェルネンコ死去した3月10日夜遅くまでクレムリン仕事をしていたゴルバチョフは、帰宅後に第二書記として医師から電話報告を受ける。ゴルバチョフは他の幹部へも連絡し後継者選出のための拡大政治局会議急遽招集された。書記長の座を巡ってゴルバチョフ有力なライバルとしては、重工業軍事工業担当書記グリゴリー・ロマノフや、モスクワ第一書記ヴィクトル・グリシンがいた。他にも野心のある人物数名いると考えられウクライナ第一書記ウラジーミル・シチェルビツキーや、高齢だがニコライ・チーホノフ首相もその中に含まれた。外相第一副首相アンドレイ・グロムイコもその中の1人思われたが、高齢となったグロムイコ書記長の座よりも形式上国家元首ポストである最高会議幹部会議長の職に意欲燃やしていた。ゴルバチョフグロムイコ接触し取引結果グロムイコ推薦を得るに至る。推薦演説をしたグロムイコは「諸君この人物は笑顔素晴らしいが、の歯を持っている」と語った高齢指導者続いたあとでもあり、若い指導者へ期待大きさは『プラウダ』紙でのゴルバチョフ写真が、死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。 ゴルバチョフは書記長就任後、「の歯」に相応し人事刷新矢継ぎ早に行う。自身後任の「第二書記」にはエゴール・リガチョフ当て政治局員イデオロギー担当書記加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長選出した対抗していたグリシンロマノフ老齢チーホノフ首相解任し、共産党中央委員会書記ニコライ・ルイシコフ経済担当)を後任充てた。また、グロムイコ最高会議幹部会議長国家元首)にし、新たな外相には、グルジア第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼ抜擢して内外驚かせた。 また経済担当閣僚では、1985年10月ゴスプラン国家計画委員会議長ニコライ・バイバコフ解任し、後任ニコライ・タルイジン任命した軍部地方共産党幹部大幅に入れ替えられて若返った

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