ベルリンの壁崩壊とは?

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ベルリンの壁崩壊

1989年11月9日に、東西ドイツ分断する壁が市民らによって壊された歴史的出来事

2009年には、ドイツ各地20周年記念イベントが催されている。

ベルリンの壁崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/22 20:20 UTC 版)

ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊ドイツ語: Mauerfall)ともいう。


  1. ^ 東ドイツそのものが、ソ連に政治的にも軍事的にも依存し、その経済的支援とともに軍事的支援(国内にソ連軍が存在すること)がホーネッカー政権を支えていた。
  2. ^ この日ゴルバチョフは駐東独のソ連大使コチュマソフを通じて、東ドイツ市民のデモ隊の制圧に駐独ソ連軍を使わないよう、駐独ソ連軍の司令官スネトコフに指示していた。(ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P485)
  3. ^ この声明は社会主義統一党機関紙ノイエス・ドイチュラント』に12日に掲載された。
  4. ^ シュトレーレッツは「上級大将」と訳されているが国家人民軍の階級では旧ドイツ国防軍で上級大将を意味した"Generaloberst"は「大将」で、国家人民軍上級大将は""Armeegeneral"
  5. ^ ホーネッカーが中央委員会で解任され失脚した日時を、10月18日とする出典も散見される。これは17日の政治局会議で中央委員会に対して解任を求める動議を提出することが可決され、翌日の中央委員会総会で解任動議が可決されたことにより正式に退任したからである。
  6. ^ 失脚後のホーネッカーに対して行ったインタビューをまとめた『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(著:ラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク 翻訳:佐々木 秀 時事通信社 1991年) P20では、ホーネッカーは「10月17日の政治局会議」と明言している。
  7. ^ この措置は、それまでと違い、二国間協定に基づくものであったので、その意味は大きく、西ベルリンの新聞「ターゲスツァイトゥンク」紙の記事でジャーナリストのクラウス・ハルトゥングが「誰も正しくは気付いていない。壁が崩れたということを」として「象徴が崩れたのではない。現実が崩れたのだ」と記している。チェコと東ドイツ国境が開放され、続いてチェコと西ドイツ国境が開放されたことで、もはや後戻りはできず、その次の選択は西ベルリン及び西ドイツとの国境を開放するしか東ドイツの選択は残っていなかった。この決定の不可避的帰結がわずか6日後の11月9日であった。N・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」486P
  8. ^ このモドロウが閣僚評議会議長(首相)に正式に就任したのは5日後の11月13日である。この8日時点で政治局員が総辞職し、内閣の閣僚も総辞職したと各資料に述べているが、そうであるなら8日から13日まで首相は不在であったことで、11月9日夜は全く政権が機能していなかったことになる。このドイツ民主共和国の政権交代時の空白の時間が壁の崩壊に多分に影響があったと解される。
  9. ^ 出典によって表現が違う。
  10. ^ そんなことをしたら、支離滅裂な対応になり、一度に大量の東ドイツ国民が国を去り、国が崩壊すると予想した。
  11. ^ 直前のハンガリーやポーランドでの事態では「追放」で再入国を認めないものであった。
  12. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では12時30分、H・A・ヴィンクラー著「自由と統一への長い道Ⅱ」では午後3時50分と述べている。クリストファー・ヒルトンは昼12時に中央委員会に提出されて、12時30分に中央委員会で承認され、すぐに閣僚会議に付託され、午後3時30分にクレンツの下にゴム印の押された提案書が戻ってきたとしている。
  13. ^ H・A・ヴィンクラーは、これによって「11月10日という報道解禁日」は事実上なくなったと述べている。また閣僚評議会から発表すべきとの内相の発言は政令が「閣僚評議会議長令」だからであることが、その理由であった。そうであればシャボフスキーは政府スポークスマンとして閣僚評議会の発表を行ったことになるが、実は閣僚評議会のスポークスマンは別にいたことになっている。ただしこの記者会見の場での他の発表内容は中央委員会での討議内容であった。
  14. ^ シャボフスキーは元ジャーナリスト(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24)。なお、当時の彼の役職は党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員であった。
  15. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」 下巻 181Pではクレンツは彼に紙切れを手渡し「これを発表するように。爆弾発表だ」と言った、シャボフスキーはこの時にその内容を読まなかったという。他に 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』24P ではシャボフスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言われたという。これはシャボフスキーの回想によるものだが、クレンツの回想によればシャボフスキーが発表しても良いかどうかを尋ねたことになっている。
  16. ^ 中央委員会が行われた党本部から、この各国の記者が集まった会見場(国際記者会館)までは、直線距離でわずか200~300mの近さであったが、道路を走るため公用車を使っていた。
  17. ^ 但し資料によっては100人の記者が出席していたとするものもある。
  18. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」では閣僚評議会の諸決定の報告をしていたと記している。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207P参照
  19. ^ イタリア人記者リッカルド・エールマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによれば、この会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ”. 2009年6月10日閲覧。。但しエールマン自身はこの報道を否定しているという情報もある。
  20. ^ それぞれ出典が違うが、前後関係からシャボフスキーの言い方はこのような流れであったと思われる。
  21. ^ この質問をしたのは、エールマンでなくアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者であるとヴィクター・セベスチェンは書いている。ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』509-510P
  22. ^ この言葉は、他に「私の知る限りでは、今からすぐにです」[83]、「私が知っている限りでは、即座に遅延なくです」(グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P)、「私が承知している限りでは、直ちに遅滞なく発効します」(エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P)と訳されている。
  23. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では、政令案はこの日午後に中央委員会から閣僚会議に付託されて、午後3時30分にクレンツの元に書類が戻ってきている、と述べている。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」ではシャボフスキーは「閣僚評議会」の諸決定を報告したとしている。1961年8月12日の壁建設時に夕方に中央委員会で決定し、夜の園遊会で酒を飲んでいた閣僚連中にウルブリヒトが突然署名を求めた歴史の経過から、閣僚会議が全く形ばかりの組織であることは明らかだ。首相の任免は中央委員会で行っており、中央委員会が閣僚会議より上位に位置していることで、実際アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」でシャボフスキー自身が寄稿した文では、彼が記者会見に持っていった文書は政府通達の草案で、新しい旅行法が不十分で抗議の動きが強まっていたために政令の発表を急ぐ必要があったと記し、「我々の決定について政府は何も知りませんでした」と書いている。(アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」136-140P 参照)ましてシュトフ閣僚評議会議長(首相)が前日に解任されて後任にモドロウが決定したが正式就任が13日であることで、この場合は閣僚会議の議決の可否は大きな問題ではなく、シャボフスキーは勘違いではなく、形だけの閣僚会議のことは全く考えていなかったと解される。
  24. ^ ベルリンでは電波が相互にスピルオーバーするため、という言説は正確ではない。余分に電波が飛んでいる状態ではなく、政治的に対立している地域ではお互いに電波が遠くまで届くようにするもので、東西ドイツ間では相互に認めている状態である。それが自由主義の宣伝にもなり、東ドイツの人々は西側の番組を知っていた。
  25. ^ 「ボルンホルマー通り」と表記する資料もある。
  26. ^ 通称チェックポイント・チャーリーとして有名であり、1961年10月に米ソで戦車を動員にして対峙した所であり、また西側3ヵ国の軍関係者はここだけ通過が認められている検問所である。
  27. ^ 国境検問所には直接窓口で対応するパスポート審査官と、外で保安活動を行う国境警備隊とは現実に任務が分かれていた。国境警備隊はあくまで検問所の外側でのいわゆる治安維持を含めた規制などの警備を行い、パスポート審査官は検問を通過する者のチェックや認証などの窓口業務を取り仕切った。そしてこのパスポート審査は国家保安省(シュタージ)の管轄であり、市民が出入りする場所である検問所の全ての責任はこのパスポート審査官が負っていた。従って現場での最高責任者は国境警備隊ではなく、パスポート審査官であった[92]
  28. ^ ただし、異説として、この11月9日夜に限って各検問所のパスポート審査の責任者全員が内務省の会議に呼び出されていたために、この夜は各検問所も副官が留守を守っていたとして、決断を下すべき本来の責任者はどこの検問所にも居なかったとしている。残っていたメンバーで一番経験の長い者がこの困難な状況下で歴史的な決断を下す夜になったことになる[93]。そして1989年11月9日夜のボルンホルマー通りの検問所の最高責任者はパスポート審査官であるハラルト・イエーガー司令官であった[92]
  29. ^ 後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになったハラルト・イエーガードイツ語版中佐Yannick Pasquet (2014年11月9日). “「ベルリンの壁を開放した」元国境警察官、25年前を回想”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/articles/-/3031195 2014年11月11日閲覧。 
  30. ^ ギュンター・メルと表記する資料もある。
  31. ^ チェックポイント・チャーリーで最終的に彼が国境の開放を決断することになるが、彼はパスポート審査官ではなく、警備隊の指揮を取っていたと思われる。またモルはイエーガーと違ってシュタージには在籍しておらず、チェックポイント・チャーリー内ではシュタージでもあったイエーガーとはまた別の立場であった。
  32. ^ 1936年のベルリンオリンピックのメイン会場となったスタジアムである。戦後は連合軍の施設となり、西側の軍関係者が集まる社交場でもあった。
  33. ^ チェックポイント・チャーリーのあるフリードリッヒ通りの地下に地下鉄の駅はあるが、それは西側の駅であり、東側には壁付近に近い駅はない。越境や逃亡を防ぐためである。
  34. ^ 西側3ヵ国の軍関係者は1961年の壁建設以後も東ベルリンに行くことは可能であった。戦後の4ヵ国協定で米英仏ソの4ヵ国はベルリンの東西を往来することは認められていて、相互に軍用車に自国の旗を立てて、他国の占領管理地区をパトロールを行っていた。当初アメリカ軍は1日おきに昼間と夜間に4~5台が東ベルリンをパトロールし、その後毎日実施していた。これはソ連占領地域に出入りする権利を持つことを誇示し、その権利を行使することを示していたが、ソ連側も同じように西ベルリンをパトロールしていた[104]
  35. ^ 同じ1989年6月4日に起こった天安門事件の影響もあり、すでに東ドイツの全ての軍隊はあらゆるデモに対して武力制圧をすることを拒否していたため、武力をちらつかせての威嚇や武力制圧という手段はまず不可能であった。
  36. ^ ベルリンの国境検問所は東側は東ドイツが管理しているが、元はソ連であり、米英仏の西側3ヵ国とソ連とでベルリンを管理している形は戦後変わらずにきている。東ドイツが何としようとベルリンの管理は米英仏ソの4ヵ国が取り決めていることで、アメリカ軍の相手は東ドイツでなく、ソ連軍であった。そしてこの時にソ連軍は50万人の兵士が東ドイツにいた。
  37. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ではモル司令官が「独断」でゲートを開かせたと述べているが、正確には「独自の判断」と表現しており、勝手に動かした訳ではない。しかもこの時点はボルンホルム通りのイエーガーの決断から1時間も過ぎており、他の検問所もすでに開き、しかもチェックポイント・チャーリー内のパスポート審査官(シュタージ)の同意を得ており、独断とは言えない。なおマイケル・マイヤー著「1989 世界を変えた年」ではこのチェックポイント・チャーリーの国境開放は11時17分としている。
  38. ^ この西ドイツの国会で自然発生的に国歌が歌われたことについて、11月9日夜ではなく、翌日の11月10日とする説もある。川口マーン恵美 著「ベルリン物語」では11月10日の午前中の出来事で、歌われた国歌は『すべての上に君臨するドイツ』で始まる一番であった。川口マーン恵美 著「ベルリン物語」249P参照
  39. ^ あくまでスターリン主義的なソ連型社会主義を否定しただけでありマルクス・レーニン主義自体を放棄した訳ではない。
  40. ^ 正式な楽曲リリースは1992年のアルバム『JOURNEY (THE ALFEEのアルバム)|JOURNEY』
  1. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」145P
  2. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」194P
  3. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」104P
  4. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」105P
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  11. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」445P参照
  12. ^ 北島瑞穂 著「ドイツ現代史探訪」第4章 もうひとつのドイツの記憶 144P
  13. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」446P参照
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  19. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」 372-376P参照
  20. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」 453-454P参照
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  31. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P83
  32. ^ アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989.11.9』4P 及び 巻末資料ⅲページ参照
  33. ^ ドイツ民主共和国憲法第1条 「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である。(ドイツ民主共和国は)労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.)
  34. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8
  35. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9
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  37. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P484
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  59. ^ アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989.11.9』巻末資料ⅳページ参照
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  78. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」208P参照
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  152. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」217-218P参照
  153. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」218P参照
  154. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」219-220P参照
  155. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」220P参照
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  157. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P515
  158. ^ 『ダライ・ラマ自伝』(ISBN 4167651092)
  159. ^ ベルリンの壁崩壊25周年、3日間の祝賀行事 ドイツ(AFP 2014年11月8日)




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