ベルリンの壁崩壊
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ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。
- 1 ベルリンの壁崩壊とは
- 2 ベルリンの壁崩壊の概要
ベルリンの壁崩壊
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「アンゲラ・メルケル」の記事における「ベルリンの壁崩壊」の解説
1989年11月9日、夕方のテレビニュースで出国のビザ規制が大幅に緩和されることを知ったが、母親に電話しただけで夜にサウナに出かけ、そして自宅に戻って来て大騒ぎになっていることに気づいて、友人とともにボルンホルム通りの検問所に行った。国境ゲートが開いた後に歓呼の中で、西へなだれ込む人波とともに西ベルリンに初めて足を踏み入れた。ようやく西に入った彼女はハンブルクに住む叔母に公衆電話から電話しようとしたが、公衆電話が見つからず諦めたところに、見ず知らずの西ベルリンの人の一家と出会い、その人の家の居間から叔母に電話を掛けさせてもらった。その後、集まっていた一団で西ベルリンの繁華街クーダムに行こうということになったが、彼女は断り、東へ戻った。後に「ここまでやって来たことだけで、私にとっては大変なことでした。」と回想している。この時35歳だったが、この日まで普通の一般人であった彼女の人生はこのベルリンの壁崩壊で劇的に変わった。
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ベルリンの壁崩壊
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「エゴン・クレンツ」の記事における「ベルリンの壁崩壊」の解説
書記長就任後は一党独裁制の枠内での緩やかな民主化を図ろうとしたものの、国民の反発を受けた。そもそもクレンツはホーネッカーの子飼いの部下であったため国民はおろか党員の信頼さえ得ておらず、書記長就任の際には人民議会で全会一致の賛同するそれまでの慣行が破られ、異例の反対・保留票が投じられた。 書記長就任直後の20日にはドレスデンで1万人のデモが発生し、23日のライプツィヒの月曜デモは30万人が参加してクレンツ体制に不満を表明した。11月4日には首都東ベルリンで東ドイツ史上最大の100万人規模の反政府デモが発生し、クレンツ体制は開始直後から窮地に立たされることになった。 早急な民主化を訴える国民の要求に答える形で、11月6日には東西ドイツを自由に旅行できるようにする旅行自由化法案が発表される。しかし、この法案は制限がついた法案であったため既に政権に従順では無くなっていた人民議会で否決され、修正を迫られることになる。そこで11月9日に議会の修正を経ずに済む政令である旅行自由化の政令案を作成。党中央委員会で一部の修正を経て承認されたのち、閣僚評議会(内閣)の可決を経て即日公布・施行した(但し、報道への発表は11月10日の朝を予定していた)。 この政令は実際は旅行ビザの発給を大幅に緩和する法律であり、越境にはあくまで正規の旅行ビザが必要であったが、9日の夕刻に行われた記者会見でスポークスマン役のシャボフスキーが、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」「私の認識によれば(発行は)『直ちに、遅滞なく』ということです」(この時は閣僚評議会で可決される前だった)と誤って発表したために、多くの東ベルリン市民がベルリンの壁周辺の検問所に多数詰めかけ、検問所の国境警備隊も発表をそのまま受け検問所を開放したために、東ベルリン市民をはじめとする東ドイツ国民は東西ドイツ間を自由に行き来するようになった。 これがきっかけになり、最初は東西ベルリン市民によって、後に東ドイツ政府によって正式にベルリンの壁が撤去され、ベルリンの壁崩壊が実現することになった。そして東西ドイツは1990年10月のドイツ再統一へと向かう。
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ベルリンの壁崩壊
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「ギュンター・シャボフスキー」の記事における「ベルリンの壁崩壊」の解説
詳細は「ベルリンの壁崩壊」を参照 東欧民主化革命の混乱の中、1989年11月9日、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内および世界向けに放送された生放送での記者会見で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する。しかし、混乱の中、ドイツ社会主義統一党書記長(当時)エゴン・クレンツから渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボフスキーは一知半解のまま「11月10日からの旅行許可に関する出国規制緩和」だったのを「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまう。さらに記者から「(この政令は)いつから発効するのか?」との質問に対して、政令の発効期日を伝えられていなかったシャボフスキーは政令に書かれていた「直ちに発効する」「遅滞なく」という文言に従い「私の認識では『直ちに、遅滞なく』です。」と発言してしまった。これが引き金となり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到し、ベルリンの壁崩壊へと至り、ドイツ再統一に結びついた。 結局、クレンツやシャボフスキーらも国民やSED党員の反発を受けて1989年の12月には退陣に追い込まれ、1990年初頭にはシャボフスキーは民主社会党(PDS)へと衣替えしたSEDから除名された。
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