ベルリンの壁崩壊
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ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。
- 1 ベルリンの壁崩壊とは
- 2 ベルリンの壁崩壊の概要
ベルリンの壁の崩壊
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「ベルリンの壁の崩壊」の解説
1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した日、ブラントと3人目の妻であるブリギッテはウンケル市に建てた家の引っ越し作業で疲れたため早めに床についた。この日の夕方に行われた東ドイツの記者会見の模様は知っていたが、全くその後の壁の突然の崩壊は知らなかったという。そして早朝に電話のベルで起こされて、緊急にインタビューをしたいとジャーナリストが申し入れた時に知らされた。 そして急ぎイギリスの軍用機に乗ってベルリンに向かった。まだこの時代は西ドイツ機で西ベルリンに飛ぶことは許されていなかったのである。そして西ベルリン市庁舎前の広場での集会に参加した。この集会には昨夜ポーランドから急遽西ベルリンに飛んできたヘルムート・コール首相、ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー外相、ヴァルター・モンパー市長、ユルゲン・ヴォールラーベ市会議長らとともにブラントは演壇に立った。そして検問所を通って東ベルリンに足を運んだ。翌年念願のドイツ再統一がなると、ブラントは連邦議会に首都をボンからベルリンに移転することを提議し、議決された。
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