ルーマニア革命
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ルーマニア革命(ルーマニアかくめい)と呼ばれる革命には、以下のようなものがある。
- 1 ルーマニア革命とは
- 2 ルーマニア革命の概要
ルーマニア革命
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ソ連にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカをはじめ、1989年にはベルリンの壁の崩壊に連なる、東欧の民主化の波はルーマニアにも波及した。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなど、東欧諸国が無血で民主化を成し遂げる中、チャウシェスク大統領は権力の保持を企図したため、暴動が発生。ルーマニアだけは、流血の革命による民主化となった(1989年のルーマニア革命)。 1989年12月16日に、ルーマニア西部の都市ティミショアラでの牧師強制連行事件に対し、市民は抗議運動を起こし、当局はこれを鎮圧に乗り出したが、死者の発生が抗議運動に過熱化させる結果を招いた。国民のチャウシェスク独裁の不満は一挙に噴出し、暴動は首都ブカレストを含むルーマニア全域に広がった。12月22日にはチャウシェスクは全土に戒厳令をしき、国軍による混乱鎮圧に着手する。しかし、国軍は大統領の命令を拒否し国民に合流。彼らと治安部隊との武力衝突が、首都を含む各地で繰り広げられた。ブカレストでは、市民が共和国広場に押し寄せ、更に共産党本部、放送局を占拠。もはやこれまでと、チャウシェスクは夫人とともにヘリコプターで脱出を試みるが失敗、身柄を拘束されてしまう。これを受けて、暫定政権として救国戦線評議会が結成され、数日で実権を掌握。事実上の政府となった。同評議会は議長に、イオン・イリエスクを選出。12月25日には、チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺刑となった。その様子は映像で世界中に配信され、「ベルリンの壁の崩壊」の場面と並び、東欧民主化を国際社会に見せ付けることになった。
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