チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 09:36 UTC 版)
「ルーマニアの歴史」の記事における「チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命」の解説
1965年にはチャウシェスクが指導者の地位につき、国号をルーマニア社会主義共和国へ変更。1974年には大統領に就任し、独裁体制をしいた。その間、アメリカ合衆国、西ヨーロッパ、中華人民共和国と外交関係を交わし、「東欧の異端児」と呼ばれるようになった。急速で過度に重工業化を目指し、西側からの技術の導入や機械の輸入で債務を膨張させた。対外債務は飢餓輸出の結果完済したものの、「国民の館」と称する豪奢な宮殿を造営するなどの奢侈にはしったため、ルーマニアの経済は疲弊していった。ルーマニアには石油が埋蔵されていて資源面で優位なことが、東西冷戦、中ソ対立においても、独自の立場の維持を可能にした。しかし、これはルーマニアをチャウシェスクの独裁国家に変質させる要因にもなった。 1977年3月4日、ブカレストの北方約100kmを震源とするマグニチュード7.0から7.5の地震が発生。多数の建物が倒壊して死傷者が出た。ブカレスト市内でも少なくとも十カ所のビルが倒壊したことを駐ルーマニアのアメリカ大使館員が報告している。同年3月9日、ルーマニア共産党政治執行委員会は、同日時点で死者が1357人、重軽傷者10396人、被災家屋2万戸超に達していることを明らかにしている。
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