チャウシェスク一家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 21:40 UTC 版)
「ゾヤ・チャウシェスク」の記事における「チャウシェスク一家」の解説
ルーマニアで革命が勃発しているさなかの1989年12月24日、ゾヤは科学技術創造研究所で働いていた。彼女は兄のヴァレンティン、弟のニクとともに「ルーマニア経済を弱体化させた」との名目で逮捕され、拘留された。ゾヤは1990年8月18日に釈放された。革命後のゾヤは、控えめに暮らそうとしていた。釈放されたのち、ゾヤは職場に戻ろうとするも拒否され、受け入れられることは無かった。数学者としての道を閉ざされた彼女は自身の運命を受け入れ、身を引いた。「革命後のゾヤは荒んだ生活を送るようになり、多くの愛人がおり、しばしば酒に酔っていた」と報じるメディアもあった。ルーマニア新政府が、チャウシェスク一家が住んでいた建物を「国民から奪い取った富の象徴である」として接収したことで、ゾヤは友人と一緒に暮らさざるを得なくなったという。 ゾヤによれば、母エレナは、秘密警察のセクリターテ(Secritate)に対し、ゾヤを含めて子供たちから目を離さないよう頼んだという。これについて「母は愛情というものを履き違えていた」という。セクリターテはチャウシェスクの子供たちに直に接触することはできなかったが、セクリターテが提供した情報は深刻な問題を数多く惹き起こした。また、ゾヤは「権力が父に有害な影響を及ぼし、父から正常な判断力を奪った」という。 両親が絶大な権力を振るっていたころでさえ、ゾヤの生活は快適なものではなかった。ゾヤは風景の中に溶け込む目立たない存在であり、数学の研究に専念しようとしたが、それは叶わなかった。ペトレ・ロマンは、ゾヤについて、「知的な女性であり、両親が権力を握っていたころの生活に不満を抱いていた」「彼女は両親の元から離れたがっていた」と述べている。 ゾヤは、銃殺刑に処された両親の亡骸はゲンチャ墓地(Cimitirul Ghencea)ではなく、別の場所に埋葬されている、と信じていた。ゾヤは「(両親の遺体が)ゲンチャ墓地に埋葬されていることを示す明確な証拠が無い」として、両親の遺体を発掘できるようにするための法的措置を取るも、敗訴した。その後、兄ヴァレンティンが、ゾヤの起こした訴訟を引き継ぐことを発表した。
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