数学者として
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「矢野健太郎 (数学者)」の記事における「数学者として」の解説
小学生のときにアインシュタインの訪日と相対性理論に関するニュースを聞く。旧制高校在籍中に、相対性理論を理解するには微分幾何学、特にその中のリーマン幾何学を良く理解していなければならないと、当時東大助教授だった理論物理学者の山内恭彦に言われ、東京帝国大学では幾何学を専攻、1934年(昭和9年)に卒業して大学院に進む。同時に東京物理学校の講師に就任。その当時グレゴリオ・リッチ (Curbustro Gregorio Ricci) 、レビ・チビタ (Tullio Levi-Civita) などの絶対微分学が確立されつつある時代で、いち早くその重要性に着目した。またおなじころ、発展中であった、エリ・カルタンの接続の概念に注目し、カルタンの下での研究を志し、1936年(昭和11年)にパリ大学へ留学した。 パリ大学で提出した射影接続空間に関する論文により理学博士の学位を得る。1941年 東京大学 、理学博士 論文は仏文である。「共形接続空間の理論について(仏文)」。 高校生のときから相対性理論に興味を持っていたこともあり、統一場理論に関する論文も発表している。以後精力的に論文を発表していく。第二次大戦の影響で研究はややその速度を緩めるが、終戦後は堰を切ったようにますます論文の数は増えていった。プリンストン高等研究所ではサロモン・ボホナー (en:Salomon Bochner) のもとで大域微分幾何学の研究を主に行い、ボホナーとの共著も出版されている。 当時、同じくプリンストン高等研究所にいたアインシュタインと親交を深める。矢野の夫人とアインシュタインが腕を組んでいる写真は矢野家の家宝とのことである。その当時のことを記した『アインシュタイン伝』は代表作である。 以後も、世界中を飛び回り、客員教授や講演で活躍した。晩年になっても研究生活は継続し、共著や単独で多数の論文を発表した。
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数学者として
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大学院修了後、大阪市立大学に採用され、1999年(平成11年)に理学部の助手として着任した。2004年(平成16年)、母校である京都大学に転じ、大学院の理学研究科にて助教授に就任した。なお、2007年(平成19年)より職位が助教授から准教授となった。2008年(平成20年)、本務が理学研究科から数理解析研究所となり、そちらでも准教授に就任した。2012年(平成24年)、京都大学の数理解析研究所にて教授に昇任した。その傍ら、他の教育・研究機関でも教鞭を執った。オーバーヴォルファッハ数学研究所においては、サイモンズ客員教授を兼任した。
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数学者として
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「ムスチスラフ・ケルディシュ」の記事における「数学者として」の解説
TsAGIで航空力学上重要な研究に従事する一方で、ケルディシュは1934年、科学アカデミー数学研究所に籍を置き、博士課程の研究を行った。数学研究所では、主に複素解析や微分方程式論を修め、1938年に理学博士号を取得した。この時に学んでいた関数近似理論は、TsAGIでの仕事にも役立った。博士課程修了後も、主にラヴレンチェフと共同で数学の研究を続け、論文をいくつも発表している。ケルディシュの業績の主なものとしては、ルンゲの定理として知られる多項式近似の完全な結果を求め、後にメルゲルヤンの定理によって一般化される足掛かりを作ったこと、ディリクレ問題の一般化された解を与えたこと、などが挙げられる。数学研究所で行った研究の主題は、純粋数学の領域に属するものだが、研究の動機は航空流体力学における仕事で得た発想によるものであった。 また、博士号を得たケルディシュは、1942年からモスクワ大学教授の職に就き、大学・大学院での講義や学生の指導にも力を入れた。モスクワ大学の教授は、1953年まで務めた。
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数学者として
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「セオドア・カジンスキー」の記事における「数学者として」の解説
1962年にカジンスキーはミシガン大学の大学院に入学し、修士号(1964年)と博士号(1967年)を取得した。ミシガン大学は大学院進学の第一候補ではなかったが、カリフォルニア大学バークレー校やシカゴ大学も受験して合格こそしたものの、ティーチングアシスタントのポジションや学費援助は得られなかったのである。それに対してミシガン大学からは年に2,310ドルの助成金(2018年の20,000ドル弱に相当)とティーチングアシスタントのオファーがあったのだった。 ミシガン大学では、複素解析(特に幾何学的関数論)を専攻した。彼の知性と情熱は、教授たちに強い印象を残した。「彼は並大抵の人間じゃなかった。ほかの院生とはまるでちがっていた。自分の研究にとにかく没頭していたんだ。数学における真理の発見に打ち込んでいたよ」とピーター・デューレン教授は言う。「賢いというだけでは足りない」ともう一人のミシガン大学の数学者ジョージ・ピラニアンも言っている。ミシガン時代に、カジンスキーは18の履修科目で5つのB、12のAをとっている。しかし2006年に彼は「ミシガン大学での思い出は楽しいものではなかった...単位を(物理の科目一つ以外は)取れただけでなく、Aがありすぎたのが問題だ。ミシガンではどれだけ基準が低いのか、哀れもいいところだ」と語っている。 1967年に提出されたカジンスキーの学位請求論文『Boundary Functions』はサムナー・B・マイヤーズ賞を受賞している。これはミシガン大学で一年に提出された最も優れた数学の博士論文に送られるものだった。指導教官だったアレン・シールズは「今まで見てきた中でも一番素晴らしかった」といい、審査委員の一人だったマクスウェル・リードは「アメリカでも理解できたり褒めたりできるのは多分10人かそこらだと思う」と語っている。彼はこの論文をもとに2本の雑誌論文を書き、ミシガン大学を去るまでさらに3本を雑誌掲載している。 1967年の後半、25歳のカジンスキーはカリフォルニア大学バークレー校で、開学以来最年少の数学の助教授となった。彼はこの大学で学部生を相手に幾何学や微積分を教えていた。学生による授業評価だけをみれば、彼は好かれていたとは言えない。教師という立場に居心地の悪さを感じているというのが学生の印象で、教科書に書いてあることから一歩も出ずに授業をしたり質問があっても答えなかったという。1969年6月30日にカジンスキーは何の説明もなくこの学校を退職している。当時に数学科の学部長だったJ・W・アディソンは「突然で思いもよらない」辞職だったと語っている。 1996年、バークレー校の副学長だったカルヴィン・C・ムーアは、カジンスキーの「印象的な」博士論文と雑誌論文を振り返り、「もっと出世して、今ごろ学部の上層部の一員になっていたかもしれない」と述べている。一方で1996年のロサンゼルス・タイムズに掲載された記事は、数学者への取材を通じて「カジンスキーが研究していた分野は実質的にすでに消滅している。彼が研究活動を行っていた1960年代に、ほとんどの理論の証明は成し遂げられてしまった」と書いている。ただし数学者のドナルド・ラングは「もし数学者のままだったら多分何か別の研究対象に移っていただろう」とも言っている。
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数学者として
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数学に詳しく、随筆の『文明軒雑談』には数学や度量衡の話題を多く記している他、自身でも『觿耑算法』という数学書を著しているが、後者は現存していない。 その他、『中正子外篇』の第六となる『治暦篇』にも数学上の業績が残っている。特に、中世日本において分数計算が言及された例として貴重なものである。1太陽年の平均日数と、太陰太陽暦のメトン周期における1年の平均月数から、1朔望月の平均日数を求める計算で、数式に表すと以下のようになる。 365 1 4 ÷ 12 7 19 = ( 1461 4 × 19 235 = 27759 940 = ) 29 499 940 . {\displaystyle 365{\frac {1}{4}}\div 12{\frac {7}{19}}=\left({\frac {1461}{4}}\times {\frac {19}{235}}={\frac {27759}{940}}=\right)29{\frac {499}{940}}.} ただし、本文中には除算に関する記述がなく、2つの被演算子となる帯分数が並べられた後、突然正しい解となる帯分数が与えられる。このことから、岡山茂彦と田村三郎は、中巌自身は計算法を余り理解せず、計算結果を中国の数学書から書き写した可能性もあるのではないかと指摘している。 自伝である『自歴譜』によれば、中巌円月は数え12歳の時に道恵から「九章算法」というものを学んだという。ここでいう「九章算法」とは、中国の数学書『九章算術』のことではなく、単に数学の同義語と考えられる。その他、元に7年間に滞在した時に数学を学んだ可能性もある。しかし、『治暦篇』には、当時中国で使用されていた授時暦への言及が全くないことから、岡山と田村は、元で暦学は学ばなかったに違いないとしている。
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数学者として
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ルベーグの論文で早く出版されたのは1898年の「関数の近似について」 である。これは連続関数を多項式によって近似するワイエルシュトラスの定理を考察したものだった。1899年3月から1901年4月にかけてルベーグはフランスの科学誌コント・ランデュ (en) に6本の報告を出版している。このうちで最初のものは、ルベーグ積分の理論とは関係なかったが、2変数の関数に対するベールの定理の拡張についてのものだった。残りの5本は可展曲面、斜多角形の面積や一定の条件下での曲面上の積分についてのもので、最後の報告でルベーグ積分の定義が与えられている。これらの研究の総合報告を含むルベーグの博士論文「積分・長さおよび面積」 は1902年にAnnali di Matematica誌上で発表された。最初の章では測度(ボレル測度)の理論が、次の章では幾何的な方法および解析的な方法による積分の定義が述べられ、続く章においてコント・ランデュで発表された弧長や面積、可展曲面に関する研究の拡張が述べられ、最後の章はプラトーの問題が論じられた。この博士論文の内容に関しては、厳密には「almost everywhere」の概念が抜け落ちていたが、その先見性の高さからはBurkill によって最上級の博士論文として評価されている。 ルベーグによる1902年から1903年にかけての講義は「ボレル報告」("Borel tract") の形で『積分と原始関数を求める問題についての講義』 としてまとめられた。この本では積分を原始関数を求める方法と見なす立場が中心的な位置を占めており、オーギュスタン=ルイ・コーシーやディリクレ、ベルンハルト・リーマンの研究などとともに歴史的な文脈における積分の問題が解説されている。ルベーグは積分が満たすべき性質として6つの条件を述べた。そのうちで最後の、もっとも自明でないものは、関数列fn(x)が増大しながら極限 f(x)に近づいていくときfn(x)の積分は f(x)の積分に近づいていく、というものだった。ルベーグはこれらの条件が積分の幾何的な定義と解析的な定義、測度論(可測関数)の概念を導くことを示している。 ルベーグの次の研究は三角関数を用いた1903年の「三角級数について」 である。このなかで彼は3つのことを示している:三角級数が有界関数を表していればそれはフーリエ級数となっていること、各周波数に関する係数は周波数が増えるにつれて減少していく(リーマン・ルベーグの補題)こと、およびフーリエ級数は項別積分可能なことである。1904年から1905年にかけてルベーグは再びコレージュ・ド・フランスで三角級数についての講義を行い、「ボレル報告」でフーリエ級数やカントール・リーマン理論、ポアソン積分やディリクレ問題などの歴史と絡めて解説を行っている。 1910年の論文「リプシッツの条件を満たす関数を近似する三角級数表示」はリプシッツ条件を満たす関数のフーリエ級数を扱っており、近似式中の剰余項の大きさに関する評価を与えている。また、リーマン・ルベーグの補題が連続関数について最良の評価を与えていることや、ルベーグ定数に関する議論も含まれている。 測度論およびそれに関連した解析学で用いられるルベーグ=スティルチェス積分はリーマン=スティルチェス積分とルベーグ積分との両方の拡張になっており、前者の持つ様々な利点を、より一般的な測度論的枠組みで実現したものになっている。 数学者としてのキャリアの中でルベーグは複素解析やトポロジーの研究も行っている。また、ルベーグはボレルと計算実効性に関する("teilweise heftig"「時に乱暴な」と評された)論争を行っている。しかし、これらに比べれば彼が実解析に及ぼした影響はとても大きく、ルベーグの手法は今日の解析学の基礎付けに不可欠の位置を占めている。
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