研究生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 06:39 UTC 版)
キール大学教授時代、プランクはゲッティンゲン大学が主催した論文コンクールに応募した。コンクールの結果は、1等の該当者がなく、2等がプランクだった。プランクが1等に選ばれなかったのは、論文の内容が当時ゲッティンゲン大学にいたヴィルヘルム・ヴェーバーの主張と対立するものだったことが理由とされている。しかしこの論文はヘルムホルツの目に留まった。 1887年、ベルリン大学のキルヒホフが死去した。後任として大学側は、グラーツ大学のルートヴィッヒ・ボルツマンやカールスルーエ大学のハインリヒ・ヘルツに教授就任を依頼したが、両者に断られてしまった。そこで大学は、ヘルムホルツからの推薦のあったプランクを招くこととして、プランクは1889年にベルリン大学へと移った。はじめは員外教授の地位であったが、1892年には正教授となった。 ベルリン大学に来たことによって、プランクはヘルムホルツと同僚になった。プランクより37歳年上で、当時のドイツ物理学における重鎮であるヘルムホルツと近づくことによって、プランクはヘルムホルツに共感し、尊敬の念を抱いた。プランクがヘルムホルツに褒められたのは生涯で2、3度だったが、プランクにとってそのことはどんな成功よりも嬉しかったという。 ベルリンに来てから、プランクはドイツ物理学会で自らの研究結果を発表した。はじめのうちは賛同を得られなかったが、やがて支持者が増え、1891年までには学位請求論文が頻繁に貸し出されるようになった。1894年にはヘルムホルツの推薦により、プロイセン科学アカデミーの正会員になった。 1895年ごろから、プランクは黒体から放射されるエネルギー(黒体放射)に関する研究を始めた。そして、ヴィーンの放射法則を修正することで、すべての波長に対して実験結果と一致する式を発見し、1900年にドイツ物理学会の会合で発表した。その後プランクはこの式の意味するところについてさらに考え、光のエネルギーがある最小単位の整数倍の値しか取れないと仮定すると説明できることを発見し、放射に関するプランクの法則(1900年)を導出した。またこの過程で得られた光の最小単位に関する定数(1899年)はプランク定数と名づけられ、物理学における基礎定数の一つとなった。 エネルギーが連続的な値ではなく、プランク定数に基づいた不連続な値しかとることができないという理論は、当時の古典物理学では説明がつかなかった。やがて複数の科学者により研究が進み、プランクの理論は量子力学として大きく発展することとなる。
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