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平田 宗次(ひらた むねつぐ、? - 永禄元年3月19日(1558年4月7日)は、戦国時代の薩摩国武将。父は平田氏嫡流の平田貞宗。通称は又十郎。養嗣子は平田勝宗。 平田氏5代・貞宗の三男として誕生したが、長男の昌宗が次男宗貞の無道を憎んだため、宗次は次男とされた。永禄元年(1558年)薩摩国曽於郡恒吉郷の宮ヶ原にて戦死した。 名跡は嫡流6代となった兄・昌宗の、その婿養子である光宗の次男・勝宗が継いだ。 平田 宗次(ひらた むねつぐ、生没年不詳)は、戦国時代の薩摩国武将。父は平田氏庶流の平田宗徳。通称は源太、新助。 平田宗徳の次男として誕生。祖父の宗仍は平田氏3代氏宗の次男・宗勝の養子。 日向国福島(現・宮崎県串間市)の市木にて戦死した。法名は「潔潭正清」。 平田 宗次(ひらた むねつぐ、生没年不詳)は、安土桃山時代の薩摩国武将。父は平田氏庶流の平田宗応、母は吉利久金の娘。通称は平次郎。 平田宗応の長男として誕生。祖父は平田宗徳で、日向国福島市木にて戦死した平田新助宗次は叔父に当たる。 この平次郎宗次は文禄・慶長の役にて戦死した。享年23。 平田 宗次(ひらた むねつぐ、天正13年(1585年) - 慶長4年11月28日(1600年1月14日))は、安土桃山時代の薩摩国武将。父は不明。通称は三五郎。 庄内の乱に同僚の吉田大蔵清盛(清家とも:享年28)と共に参戦したが、大隅国財部での合戦で清盛が討ち死にする。清盛の家臣である佐藤武住がその亡骸を肩に掛けて引き退いて来ると、宗次は亡骸に抱き付いて涙を流し、今はこれまでと敵中に駆け入り討ち死にを遂げた。享年15。 平田三五郎の吉田大蔵に対する忠義の精神は、後に武士間の衆道を描いた『賤のおだまき』のモデルとなり、二才衆(十代後半の若者組)の間で愛読されたと言われる。三五郎は美少年であったらしく「容色無双」と書かれている。実際、新納忠元は若武者の死を聞き、「彼は無双の美童なり」として哀悼の和歌「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかかる黒かみ」を詠んでいるが、それが三五郎のことと伝わる。『賎のおだまき』は地元鹿児島では江戸時代から明治時代まで広く読まれ、明治以降は、森鷗外ら有名作家が作品内で触れたことや1884年に自由党系小新聞『自由燈』に連載されたことなどにより全国的に知られるようになった。曽於市財部町北詰に平田三五郎の墓があるが、戦時中、墓の石片が出征兵のお守りとされたため、墓の正面の文字はほとんど削られて読めない。向かって右側に「明治三十八年二月十八日改正 平田□□(文字不明)郎 平田宗市 平田次右エ門 見事舞人 黒木伝次郎」、左側に「宮内市之助 宮内七助」とある。鹿児島市内の醫師神社に平田三五郎・吉田大蔵の辞世の句とされるものがあったが、焼失した。 平田 宗次(ひらた むねつぐ、? - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の薩摩国武将。父は平田氏庶流の平田宗清。通称は万兵衛。 平田宗清の次男として誕生。父の宗清は平田氏庶流の滝聞氏を号していたが、嫡流7代である平田光宗に許され平田に復姓した。 宗次は関ヶ原の戦いに参戦し戦死した(具体的な日時は不明)。 平田 宗次(ひらた むねつぐ、天正14年(1586年) - 慶長7年8月17日(1602年10月2日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての薩摩国武将。父は平田氏嫡流の平田増宗、母はかつけ(上井覚兼の娘)。通称は新次郎。 嫡流9代である平田増宗の長男として誕生。慶長7年(1602年)島津家久(忠恒)が日向国野尻(現・宮崎県小林市野尻町)にて狩りを行った際に同行し、庄内の乱の首謀者であった伊集院忠真共々射殺された。享年17。 宗次を射殺した日向国穆佐郷(現・宮崎県宮崎市高岡町)郷士の押川則義は、忠真と宗次が馬を取り換えていたため誤射したと述べ、則義は責任を取り切腹した。 平田 宗次(ひらた むねつぐ、文禄元年(1593年) - 慶長17年4月26日(1612年5月26日)は、江戸時代の薩摩国武将。父は平田氏庶流の平田宗親。通称は左馬頭。 平田宗親の長男として誕生。父の宗親が平田増宗の実弟であるため、増宗長男の新次郎宗次は従兄にあたる。 慶長17年(1612年)、島津家久(忠恒)により誅殺された増宗に連座して、父や弟ら共々刑に処された。享年20。
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王 陽(おう よう、生没年不詳) 先に加わった8人のうちの1人。 309年、将軍に任じられ、次いで游撃将軍となった。 嘉平年間に頓丘を攻撃し、後に石勒の側近となる徐光を捕らえた。王陽は徐光をただならぬ人物と思い、衣服を下賜して石勒に推挙した。 319年、石勒が趙王位に即くと支雄とともに門臣祭酒として胡人の訴訟を委ねられた。 322年、東晋の祖逖死後、石勒の命により豫州に駐屯して、侵攻の機会を窺った。後に驍騎将軍に昇進した。 326年、石弘が鄴に鎮した際、六夷を統率してこれを輔佐した。石弘に撃剣を教えたとされる。 支 雄(し ゆう、生没年不詳) 詳細は「支雄」を参照 先に加わった8人のうちの1人。 309年、将軍に任じられた。 312年2月、石勒は建業進攻を目論むが、飢餓と疫病により兵の大半を失った。晋軍が接近すると、石勒は諸将を集めて対応策を検討した。支雄は孔萇を始めと30将余りと共に、敵軍が集結しきる前に夜襲を掛け、城を得て兵糧を奪取する事を進言すると、石勒はこれを称えて鎧馬1匹を下賜した。 7月、石勒が北へ渡河しようとしたが、向冰により枋頭で阻まれた。支雄は孔萇と共に文石津から筏を使って慎重に渡河を行い、向冰の砦門に到達して船30艘余りを手に入れ、残りの兵を全て渡河させた。 12月、夔安ら6将と共に王浚配下の游綸・張豺が守る苑郷を攻撃し、城の外壁を撃ち破った。 315年3月、廩丘で劉演と戦うも敗れた。劉演が韓弘・潘良に頓丘を襲撃させると、支雄はその帰途を追撃して潘良を斬った。 同年、逯明と共に甯黒の守る東武陽を陥落させ、東武陽の民1万人余りを襄国に引き入れた。後に中塁将軍となった。 319年、石勒が趙王位に即くと、王陽とともに門臣祭酒として胡人の訴訟を委ねられた。 338年、鮮卑段部の段遼が幽州を攻めると龍驤大将軍としてこれを討ち、薊に入って馬鮑・張牧・陽裕らを降伏させた。 夔 安(き あん、生年不詳~340年) 詳細は「夔安」を参照 先に加わった8人のうちの1人。 309年、爪牙に任じられ、中堅将軍となった。 312年2月、飢餓と疫病に苦しむ石勒軍に晋軍が迫ると、夔安は「高所に移動して雨水を避けるべきです。」と進言するも、石勒から臆病であるとして叱責を受けた。 12月、7将と共に王浚配下の游綸・張豺が守る苑郷を攻撃し、城の外壁を撃ち破った。後に左司馬に任じられた。 330年、石勒が天王位に即くと尚書に任じられ、後に鎮軍将軍となった。 333年、石弘が即位した際に左僕射を領した。 334年、石虎が天王に即位すると侍中・太尉・尚書令に任じられた。 337年、太保に任じられ、石虎に皇帝位に即くよう勧めた。 339年、征討大都督に任じられて5将・歩騎7万を率いて荊州・揚州の北辺を侵し、東晋の将軍の黄沖・鄭進を降して、7万戸を掠して帰還した。 冀 保(き ほ、生没年不詳) 先に加わった8人のうちの1人。 呉 豫(ご よ、生没年不詳) 先に加わった8人のうちの1人。 309年、将軍に任じられた。 劉 膺(りゅう よう、生没年不詳) 先に加わった8人のうちの1人。 桃 豹(とう ひょう、生年不詳~339年) 詳細は「桃豹」を参照 先に加わった8人のうちの1人。 309年、将軍に任じられた。313年、石虎が鄴を攻めて、晋の将軍の劉演が逃亡すると、魏郡太守に任ぜられた。319年、石虎が晋の将軍の祖逖と対峙した際に援軍を率いて、祖逖を淮南へ退かせた。320年、豫州にて祖逖と対峙するが、敗れて東燕まで退いた。劉曜が洛陽を囲んだ際、援軍として滎陽に赴いた。のち豫州刺史となり、328年、石勒が劉曜を撃った際には兵を率いて滎陽で合流した。 338年、鮮卑段部の段遼が幽州を攻めると、横海将軍に任ぜられ、水軍を率いてこれを討った。 逯 明(ろく めい、生年不詳~345年) 先に加わった8人のうちの1人。広平郡の人。 309年、将軍に任じられた。 315年3月、晋の将軍劉琨が司馬の温嶠を遣わして山胡を攻撃すると、これを防いで潞城で返り討ちにした。 4月、甯黒と茌平で戦い、これを降伏させた。そのまま進軍を続けて、東燕・酸棗と立て続けに打ち破り、2万戸余りを襄国に引き連れて軍を返した。 甯黒が石勒の下から離反すると、支雄は逯明と共に甯黒の守る東武陽を陥落させた。甯黒は河に身を投じ、支雄らは東武陽の人民1万人余りを襄国に引き入れた。後に中塁将軍となった。 後に金紫光禄大夫となったが、石虎が民間の女子を徴発分配する暴挙に出るとこれを厳しく諫めて殺された。 郭 敖(かく ごう、生年不詳~334年) 後から加わった10人のうちの1人。 左長史となり、328年、劉曜が洛陽を囲んだ際、石勒が自ら救援に赴くことを諌めたため、石勒の怒りを買った。330年、石勒が天王を称した際、左長史から尚書左僕射となった。 334年、長安の陳良夫が黒羌に奔り、北羌の四角王薄句大らを招誘して北地・馮翊の地を騒がせた。石虎が石斌・石韜・郭敖らに、歩騎四万を率いさせてこれを撃たせた。石韜が薄句大の後方から、石斌と挟み撃ってこれを破り、薄句大は馬蘭山に奔った。郭敖らは追撃したが敗れて、死者は十のうち七・八に及んだ。石虎はこれを聞いて大いに怒り、使者を遣わして郭敖を殺させた。 石勒十八騎の中でも文官としての履歴が長く、石勒は武将としては彼を評価していなかった(結果的に軍事的失敗で石虎に殺害される)のではないか?とする評価もある。 劉 徴(りゅう ちょう、生没年不詳) 詳細は「劉徴」を参照 後から加わった10人のうちの1人。 青州刺史に任じられた。 323年、石虎が曹嶷を滅ぼして青州を平定すると、その衆を尽く殺そうとしたが、劉徴の諫めにより取りやめた。石虎は男女七百口を留めて、劉徴にこれを支配させ、広固に鎮させた。 330年、南沙へ侵攻して東晋の南沙都尉・許儒を殺害した。 石弘に兵書を教えたとされる。 劉 宝(りゅう ほう、生没年不詳) 後から加わった10人のうちの1人。 張 曀僕(ちょう えいぼく、生没年不詳) 後から加わった10人のうちの1人。 呼延 莫(こえん ばく、生没年不詳) 後から加わった10人のうちの1人。 309年、将軍に任じられた。 郭 黒略(かく こくりゃく、生没年不詳) 詳細は「郭黒略」を参照 後から加わった10人のうちの1人。 312年に葛陂に駐屯していた際、仏図澄から五戒を授けられて弟子となる。仏図澄から軍事の吉凶を教えられ、それを石勒に上申した。それがあまりにも的中するため、疑問に思った石勒に仏図澄の存在を明かし、二人の出会いのきっかけを作った。 張 越(ちょう えつ、生年不詳~316年) 後から加わった10人のうちの1人。 上党郡武郷県の出身であり、石勒とは同郷である。石勒の姉の夫に当たり、広威将軍に任じられた。 316年12月、張越は諸将と博打に興じており、石勒はそれを傍から眺めていた。この時、張越が石勒をからかったが、石勒は真に受けて激怒した。そして、力士を怒声で呼び寄せると、張越の首を折るよう命じ、そのまま殺してしまった。 孔 豚(こう とん、生没年不詳) 後から加わった10人のうちの1人。石勒の側近として活躍した孔萇と同一人物か、もしくは親族ではないかと言われる。 趙 鹿(ちょう ろく、生年不詳~351年) 後から加わった10人のうちの1人。趙庶とも記載される。 石鑑の時代に太宰となったが、冉閔が石鑑を幽閉すると、襄国の石祗のもとへ落ち延びた。冉閔討伐に失敗した後、裏切った劉顕によって、石祗と共に殺害された。 支 屈六(し くつろく、生没年不詳) 後から加わった10人のうちの1人。張屈六とも記載される。 左司馬に任じられた。 319年、石虎・張敬・張賓・程遐ら文武百官29人と共に石勒に尊号を称するよう進言した。石勒はこの上疏を聞き入れて趙王を称した。
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※西軍の石高は関ヶ原の戦い前のもの 大坂三人衆:元・大名格の以下三名長宗我部盛親:西軍22万石。 真田信繁:西軍3万8千石の真田昌幸(慶長16年(1611年)没)の子。昌幸とは別に1万9千石。 毛利勝永:西軍6万石の毛利勝信(慶長16年(1611年)没)の子。6万石のうち1万石が勝永。 大坂五人衆:三人衆+元・大名の家臣で所領も大名級である以下二名。明石全登:西軍57万石の宇喜多秀家の家臣。知行は10万石。 後藤基次:東軍18万石→52万3千石の黒田長政の元・家臣。知行は1万6千石。 大坂七人衆:五人衆+豊臣家家臣の以下二名。牢人ではないため「大坂牢人七人衆」とはいわない。大野治房 木村重成
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本田 親貞(ほんだ ちかさだ、? - 慶長元年5月23日(1596年6月18日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は弥六、右衛門左。官位は下野守。入道名は三省。父は本田親尚。養嗣子は本田親孝。 本田親尚の次男として誕生したが、親尚とその長男の志摩助は共に家督を相続するだけの器量が無いとして、親貞が相続することとなった。 天文23年(1554年)の岩剣城攻めの際、初陣した島津義久の太刀役として供を勤め、義久が初めて犬追物を行う際にも太刀役となった。天正年間に大隅国吉田(現・鹿児島県鹿児島市吉田町)の地頭に任じられ、天正8年(1580年)には家老職を仰せ付かった。 天正14年(1586年)12月の豊前国緒方城攻め、翌年の根白坂の戦いに従軍し、義久が豊臣秀吉に降伏し剃髪した際は自らも剃髪し三省と号すと、共に秀吉に謝罪した。その際に、秀吉より親尚へ10,000石を与えるとの朱印状を下賜されたが、自らは現在の禄高が相応であるとして、他の功労者に下すよう義久へ申し入れている。その後は加世田(現・鹿児島県南さつま市加世田)の地頭を仰せ付かり、また義久の娘の亀寿が人質として京に上る際は、自らの妻妾を連れてその供をした。 慶長元年に死去した。法名は「本立三省庵主」。加世田の本立院に葬られた。 本田 親貞(ほんだ ちかさだ、天文12年(1543年) - 慶長4年(1599年))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は兵助、次郎左衛門尉。官位は出雲守。父は本田道伯。子は本田親盛。 文禄・慶長の役に従軍し、慶長4年(1599年)の庄内の乱にも参加したが、この際に子の親盛共々討ち死にした。享年57。法名は「節岩道忠庵主」。 本田 親貞(ほんだ ちかさだ、永禄6年(1563年) - 慶長13年9月29日(1608年11月6日))は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は権之介、助之丞。元の姓は脇元で、そのときの諱は清常、清平。晩年は親智と称する。実父は脇元清元、養父は本田親歳。子は本田親明。 脇元清元の子として誕生したが、本田親歳の子の治部が島津義久の命で追放されたため、親歳の養子に入った。諸所の戦いで軍功を為し、関ヶ原の戦いの後に徳川氏との和平の使者を務めて200石を賜った。その後、唐船奉行を努めたが慶長13年に没した。享年46。法名は「明巌清円居士」。
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上述の通り史料によって若干の異動があるため、ここでは資料ごとの成員を史料の成立年代順に記述する。また参考として「四本槍」も記述する。なお史料の成立年代には諸説あるものも含まれる。 年史料名称1234慶安3年(1650年)成松遠江守信勝戦功略記龍造寺の四天王 (成松)遠江守 百武志摩守 木下四郎兵衛尉 江里口藤七兵衛尉 元禄13年(1700年)九州記四本槍 成松遠江 百武志摩 円城寺美濃 江里口藤七兵衛 正徳2年(1712年)陰徳太平記四天王の槍柱 成松遠江守 百武志摩守 円成寺美濃守 江里口藤七兵衛 享保元年(1716年)葉隠四天王 百武志摩守 木下四郎兵衛 成松遠江守 江里口藤七兵衛 享保5年(1720年)九州治乱記(北肥戦誌)隆信四天王 成松遠江守 百武志摩守 木下四郎兵衛 江里口藤七兵衛 享保9年(1724年)焼残反故隆信公四天王 百武志摩守 成松遠江守 木下四郎兵衛 円城寺美濃守 上記の通り、成員として挙げられるのは成松信勝(遠江守)、百武賢兼(志摩守)、木下昌直(四郎兵衛尉)、江里口信常(藤七兵衛尉)、円城寺信胤(美濃守)の5名である。成松・百武・木下はおおよその史料にも四天王として挙げられているが、江里口と円城寺については入れ替わりがみられる。 このうち木下を除く4名は「四本槍」「旗本に四天王の槍柱」と称されている龍造寺隆信の旗本(直参)家臣であり、いずれも隆信とともに天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで戦死している。なお「四本槍」と並んで「三法師」と称されるものもあり、高木泰栄・馬渡賢斎・成富源意の三名がこれにあたる。一方、木下は龍造寺家臣とはいえ重臣・鍋島直茂の配下につけられており、沖田畷の戦いにも参戦したが直茂と同じく生還を果たしている。末裔はいずれも佐賀藩士となった。
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井上之房:九郎右衛門、周防守 栗山利安:善助、備後守 黒田一成:三左衛門、美作守、孝高の養子 黒田利高※:兵庫助 黒田利則※:修理亮 黒田直之※:図書助 後藤基次:又兵衛 母里友信:太兵衛、但馬守 ※孝高の実弟、長政の叔父。
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大島大炊助 宮内村(後の北本市宮内) 大島氏は上野国新田氏の一族で新田郡大島村より出たとも、伊豆大島より出て太田氏や後北条氏の家臣となったとも伝えられている。永禄7年(1564年)、足立郡宮内村の開発領主として10貫500文の土地を与えられたが、天正18年(1590年)の小田原征伐による岩付城落城後、浅野長政から居住地において一族の大膳亮と共に帰農するように命じられた。 大島大膳亮久家 宮内村(後の北本市宮内) 大島大炊助の一族。一族で宮内村に住した大嶌土佐守善久の三男小四郎重富を養子とし、大膳亮を名乗らせる。大島大膳亮、式部、家紋丸ノ内三葉三花、笹リントウ、幕紋カフ竹ニ鳳凰。 加藤修理亮宗安 中丸村(後の北本市中丸) 小池長門守久宗の次男で、母方の姓を名乗る。法名、明雲院殿月菴宗安居士。慶長4年8月4日没。墓所は館跡にある真言宗安養院。通称、幸左衛門を名乗る。 小池長門守久宗 鴻巣宿(後の鴻巣市) 天文20年(1551年)、北条氏康の命により岩附城下の市宿より移住し市宿新田の開発、鴻巣宿の発展の基礎をつくった。孫の隼人助は鴻巣御殿用地を寄進。子孫は三太夫を名乗り、宿役人を務めた 河野和泉守 常光村(後の鴻巣市常光) 岩付太田氏に仕え、慶長年間に当地に土着すると、代々名主を務めた。 立川石見守 上谷村(後の鴻巣市上谷) 岩付太田氏に仕え小田原征伐の後に当地に土着したものと考えられるが、記録を失い詳細は定かではない。上谷に龍燈という小字がある。ここに大きな沼があり農民を困らせる龍が棲んでおり、天正の頃に岩槻の浪人立川石見守が退治し、村人はこれを悦んで龍燈と名づけ、沼を干拓し水田とした。 深井対馬守景吉 深井村(後の北本市深井) 深井氏は長尾景春の子孫で、祖父の景行の代に深井に移り住んだと伝えられている。父の景孝が深井に生まれ深井姓を称した。岩付太田氏に仕え太田氏資が永禄10年(1567年)に三船山の戦いにおいて戦死した後も、完全には帰農せず北条氏政や太田氏房の家臣として名を連ねた。 本木某 加納村(後の桶川市加納) 岩付太田氏旗下の鴻巣七騎の一人と伝えられているが、記録を失い詳細は定かではない。室町から戦国期に存在した加納城は本木氏、または本木氏の祖先の城であったと推測されるが実態は定かではない。 矢部某 下谷村(後の鴻巣市下谷) 大島大炊助、大膳亮らと共に帰農するように命じられた矢部新右衛門のことと推定される。中下谷村や北下谷村に村役人として定着した。
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酒井忠次(1527年 - 1596年) 本多忠勝(1548年 - 1610年) 榊原康政(1548年 - 1606年) 井伊直政(1561年 - 1602年) 筆頭は酒井忠次といわれている(最古参の譜代筆頭・最年長者であり、石川数正と並んで三河国統一時代から五か国領有時代まで仕えたため)。又、一部の学者は本多忠勝または井伊直政が筆頭であると唱えている[要出典]。
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以下の5名の足軽大将である。 原美濃守(1497年 - 1564年) 小幡山城守(1491年 - 1561年) 横田備中守(1487年 - 1550年) 多田淡路守(生年不詳 - 1563年) 山本勘助(1493年 - 1561年)
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中山照守 小野忠明(御子神典膳) 辻久吉 鎮目惟明 戸田光正(半平、重之、光政、重利) 斎藤信吉(久右衛門) 朝倉宣正 なお、槍脇として弓矢で敵を射倒していった大田甚四郎吉正も並び賞される。
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人名生没年通称備考井上之房 1554年 - 1634年 九郎右衛門、周防守 黒田八虎の一人 小河信章 1554年 - 1593年 伝右衛門 菅正利 1567年 - 1625年 六之助、和泉守 衣笠景延 1547年 - 1631年 久左衛門、因幡守 桐山信行 1554年 - 1625年 孫兵衛、大炊助、丹波守 栗山利安 1550年 - 1631年 善助、四郎右衛門、備後守 黒田八虎の一人 黒田一成 1571年 - 1656年 三左衛門、美作守 黒田孝高の養子、黒田八虎の一人 黒田利高 1554年 - 1596年 兵庫助、次郎、小一郎 黒田職隆の次男、黒田孝高の実弟。黒田八虎の筆頭 黒田利則 1561年 - 1612年 修理亮、四郎太 黒田職隆の三男、黒田孝高の異母弟。黒田八虎の一人 黒田直之 1564年 - 1609年 図書助、惣右衛門、市兵衛 黒田職隆の四男、黒田孝高の異母弟。黒田八虎の一人 毛屋武久 1554年 - 1628年 主水正、武蔵守 近江国出身。他家を渡り歩き黒田家に仕えた当時の著名人。24人中最も知行が少ない。 後藤基次 1560年 - 1615年 又兵衛、隠岐守 黒田八虎の一人。大阪夏の陣にて戦死、または生存説多数。 竹森次貞 1550年 - 1621年 新右衛門、石見守 野口一成 1559年 - 1643年 左助、藤九郎 野村祐勝 1560年 - 1597年 太郎兵衛 母里友信の異母弟 林直利 1569年 - 1629年 太郎右衛門、掃部亮 信濃国軽井沢出身 原種良 1557年 - 1639年 弥左衛門、左近太夫、孫三郎、伊予守 原田氏一族。元豊前大友氏家臣 久野重勝 1545年 - 1592年 四兵衛 堀定則 1557年 - 1636年 平右衛門 別名:正勝、正儔 益田正親 1542年 - 1611年 与助、与九郎 貧農から取り立てられた説がある 三宅家義 1548年 - 1619年 山太夫、藤十郎、若狭守 摂津国出身 村田吉次 1565年 - 1621年 兵助、出羽守 当初は「井口」姓 母里友信 1556年 - 1615年 太兵衛、多兵衛、但馬守 黒田八虎の一人。槍の名手。黒田節のモデル。 吉田長利 1547年 - 1623年 六郎太夫、壱岐守 黒田孝高の乳兄弟
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