安土桃山時代から江戸時代
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景長は伊達稙宗の子を養嗣子として迎えていたが夭折したため、実子宗長を後嗣とした。宗長の子政長は文禄の役で病死したため、石母田景頼の子重長(桑折宗長の孫)を迎えるも夭折、景頼四男の宗頼を迎え、また実父の景頼も桑折景頼を名乗った。重長の子の定長は、飯坂の局(桑折景長の孫)の懇願により飯坂家を継いだ。景頼と宗頼は、飯坂の局の子で伊達政宗の庶長子の伊達秀宗の伊予宇和島藩入部に従って家老となり、桑折家は宇和島藩家老の家系として続いた。 原田宗資は桑折宗長の子だというが、原田氏は伊達騒動で断絶している。また、飯坂家も原田宗資の孫にあたる飯坂輔俊がこの事件の連座責任で切腹となり、断絶の憂き目に遭っている。
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安土桃山時代から江戸時代
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「相模国分寺」の記事における「安土桃山時代から江戸時代」の解説
鎌倉時代以降、相模国分寺は文献上に姿を見せなくなる。従って南北朝時代から室町時代にかけて、国分寺がどうなっていたかはっきりしない。ただ寺伝によれば、国分寺は再び衰微し、戦国時代には戦火のためほぼ焼失してしまい、残ったのは高台にあった薬師堂のみであったという。そのため、この薬師堂を高台の下である現在の国分寺のある場所に移し、国分寺を再興したという。 再び相模国分寺が記録に現れるのは、安土桃山時代のことである。まず1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、国分尼寺に制札を掲げた記録が残っている。続いて1591年、徳川家康は薬師堂に二石の寄進を行った。また、この時期以降の相模国分寺歴代住職の記録は残っており、安土桃山時代になって、相模国分寺の寺院としての活動が再開されたものと見られている。 その後江戸時代に入り、寛文年間に経蔵の建立を行うために勧進を行い、その結果経蔵が建てられた。1713年には薬師堂の隣に本堂が再建された。
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安土桃山時代から江戸時代
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日向伊東氏の伊東義祐・祐兵親子らは薩摩国の島津氏の侵攻を受けて日向国を追われた。流浪となった伊東氏主従は近隣の豊後国大友氏、のちに伊予国の河野氏の一族・大内栄運を頼るが、一族家臣らの生活は困窮を極めた。 祐兵主従は、山伏三部快永のおかげで、当時織田信長の家臣として播磨国にて行動していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の家臣であった美濃伊東氏の伊東掃部助の助けを借り、同族のよしみで掃部助に紹介してもらって秀吉家臣となった。その後、山崎の戦いなどで祐兵活躍して知行を得て、秀吉による九州平定においても先導役を務め上げた戦功・功績を認められた。九州平定により島津氏は日向国の伊東氏旧領を全て明け渡し、秀吉の奇跡的とも言える天下取りの過程にて、日向伊東氏もまた奇跡的に、10年越しに日向国へ大名として復帰することに成功した。その際に祐兵は、かつて日向伊東氏の本城があった都於郡や佐土原ではなく、伊東義祐が島津豊州家より勝ち取り、義祐から祐兵自身に委ねられていた飫肥を本拠とした。 その後、日向伊東氏は飫肥藩5万1千石余の大名として江戸時代を通して一貫して廃藩置県まで存続した。一方の伊東長実の子孫は豊臣家の家臣としてその滅亡まで仕えた後、備中にて岡田藩1万石余の大名としてこれもまた江戸時代を通して一貫して廃藩置県まで存続した。 また、日向伊東氏の祖の祐光の孫の代に分かれた家は、伊豆に勢力を残し、山内上杉氏のちに小田原の北条氏に仕えた。伊東政世は北条氏当主の北条氏政から偏諱を受け、甲斐国武田氏や豊臣氏と戦い、北条氏の滅亡後は一旦蟄居するものの、関東に入府した徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い・大坂の陣などを戦い、子孫は江戸幕府旗本となった。
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