伊東祐時 (豊臣家臣)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 伊東祐時 (豊臣家臣)の意味・解説 

伊東祐時 (豊臣家臣)

(伊東掃部助 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 00:30 UTC 版)

 
伊東祐時
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 祐実、通称:掃部助
主君 羽柴秀吉
氏族 美濃伊東氏
信直(治時、掃部助)
テンプレートを表示

伊東 祐時(いとう すけとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊臣秀吉の直参家臣。諱は祐実(すけざね)ともいう[1]通称は掃部助で、伊東掃部助ともいう。

略歴

美濃国の出身[1][2]。系譜はわからないが伊東氏の流れを汲むという。

秀吉の馬廻となり、天正元年(1573年)、腰母衣衆に列した[1]

天正9年(1581年)、播磨姫路城下で山伏の三部快永と知己を得て、河野氏の一族の大内栄運(信孝)のもとに身を寄せていた日向伊東祐兵が秀吉に仕えるのを同族のよしみで仲介した[3]。天正10年(1582年)、丹波国多紀郡内などで1,000石加増された[1]

天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いに従軍[1]。天正12年(1584年)、小牧の戦いでは、初めは先手の将・筒井定次の与力として出陣し、小牧山対陣では250名を率いて本陣の右一に陣取った[4]。天正13年(1585年)の四国攻めでは、阿波国木津城を攻めて手柄を上げた[2]

天正18年から慶長の初め頃に亡くなり[2][1]、子の信直(治時)が跡を継いだ[5]治明[7]は信直の養嗣子。信直、治明ともに掃部助を称する。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 22.
  2. ^ a b c 桑田 1971, p. 107-108.
  3. ^ 平部嶠南国立国会図書館デジタルコレクション 報恩公豊臣秀吉ニ出仕ノ事」 『日向纂記. 巻10-12』荒武純太郎、1885年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766744/11 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編 国立国会図書館デジタルコレクション 『大日本古文書. 家わけ第2 (浅野家文書)』東京帝国大学、1906年、24, 36頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994445/42 国立国会図書館デジタルコレクション 
  5. ^ 仕官して数年後、秀吉が亡くなったときに信直は遺物・信国の刀を受け取っているので、祐時はかなり古参の家臣だったようである。
  6. ^ 高柳 & 松平 1981, p. 23.
  7. ^ 実は金森長近の次男。別所友治と酒席で口論して討たれ、絶家した[6]

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  伊東祐時 (豊臣家臣)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伊東祐時 (豊臣家臣)」の関連用語

伊東祐時 (豊臣家臣)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伊東祐時 (豊臣家臣)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの伊東祐時 (豊臣家臣) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS