伊東祐慶とは? わかりやすく解説

伊東祐慶(いとう すけのり) 1589~1636

熊太郎 祐典 左京亮 修理大夫
◇父:伊東祐兵 室:佐藤隆勝女?豊臣秀次女? 子:伊東祐久、祐豊
 関ヶ原の合戦では東軍味方し、病に倒れた父に代わって領国日向帰り高橋元種宮崎城を陥とし、薩摩島津氏佐土原城攻める。父の死当主となる。

伊東祐慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:26 UTC 版)

 
伊東 祐慶
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正17年6月13日1589年7月25日
死没 寛永13年4月4日1636年5月8日
別名 熊太郎(通称)、祐典
官位 従五位下左京亮修理大夫
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀頼徳川家康秀忠家光
日向飫肥藩
氏族 日向伊東氏
父母 父:伊東祐兵、母:伊東義益の娘・阿虎の方
兄弟 伊東祐平室、祐慶、於仙、滝川法直室、祐寿
正室大田原氏
側室:森本氏
祐久祐豊
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伊東 祐慶(いとう すけのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名日向国飫肥藩の第2代藩主日向伊東氏13代(伊東氏19代)当主。母の阿虎の方は江戸幕府大奥按察使局の従姉妹である。

略歴

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、家臣の稲津重政の進言を受け、西軍の高橋元種宮崎城に軍勢を派遣し落城させた。しかしこれと前後するように元種は東軍に寝返っていたため、宮崎城は奪還された。徳川家康より所領を安堵された。なお、祐慶は後日、責任を取らせる形で清武城にて稲津重政を討っている。

同年、父・伊東祐兵大坂にて病死したため、家督を継いだ。元和年間より領内にスギ飫肥杉)の植林事業を興し、藩財政の基礎とした。

寛永13年(1636年)48歳で死去した。家督は長男・祐久が継いだ。次男祐豊徳川家光の小姓を勤め、3000石分知される。

系譜

父母

正室

側室

  • 森本氏

子女

関連項目




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