伊達騒動とは? わかりやすく解説

だて‐そうどう〔‐サウドウ〕【伊達騒動】

読み方:だてそうどう

江戸初期仙台藩伊達家起こったお家騒動万治3年(1660)藩主伊達綱宗不行跡のかどで幕府から隠居を命ぜられ、幼少の綱家督相続その後見役伊達兵部宗勝家老原田甲斐宗輔らと宗家横領企てたとして、伊達安芸宗重が幕府訴えた寛文11年(1671)大老酒井忠清邸での評定の席で宗重は宗輔に斬られ、宗輔も殺害された。「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」など、歌舞伎・浄瑠璃題材となった


伊達騒動

読み方:ダテソウドウ(datesoudou)

仙台藩御家騒動


伊達騒動

作者海音寺潮五郎

収載図書新装版 列藩騒動録 上
出版社講談社
刊行年月2007.5
シリーズ名講談社文庫


伊達騒動

読み方:ダテソウドウ(datesoudou)

初演 明和4.1(大坂中村歌右衛門座)


伊達騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/29 08:31 UTC 版)

伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に伊達家仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動加賀騒動または仙石騒動とともに「三大お家騒動」と呼ばれる。


注釈

  1. ^ ただしこれは事実でなく、口実であるとする説もある。
  2. ^ 綱宗の父・忠宗正室である孝勝院は光政の叔母だった。
  3. ^ 忠宗の娘婿で綱宗の義兄だった。
  4. ^ 祖父・政宗の娘婿で忠宗の義弟だった。
  5. ^ 万治元年(1659年)12月、隅田川三又(みつまた)で綱宗に遊船の中で吊し斬りにされた。」「仙台侯が請出して56歳で天寿を全うした。」などの逸話が残るが、実際はこの時代には吉原三浦屋に、高尾の名跡の遊女は存在していない[要出典]
  6. ^ 伊達騒動関係研究では滝沢武雄[1]、近世天皇研究関係では久保貴子が[2]、この説を採る。
  7. ^ 谷地を宗重が3分の1、宗倫が3分の2に分割する案。なお、後年の元禄10年(1697年)に幕府による新たな国絵図の提出を求められたために、参考のために幕府より借用した正保国絵図で宗重の主張が正しかったことが判明するが、不幸にも仙台藩の持っていた控えが紛失したためか、奉行や後見人が証拠資料として参照していた形跡はない。
  8. ^ 役職は「仙台市史」より抜粋した。
  9. ^ 柴田、古内、片倉、茂庭が宗重の国目付差出を一度妨害したり、古内と柴田が伊東重孝の死刑を上申したりしているので確固たる派閥とは言い難い。
  10. ^ 1701年(元禄14年)就任

出典

  1. ^ 「伊達騒動新考」『史観』第75冊、1967年
  2. ^ 『近世の朝廷運営:朝幕関係の展開』岩田書院、1998年


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伊達騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 08:11 UTC 版)

伊達綱村」の記事における「伊達騒動」の解説

万治3年1660年7月、父・綱宗の叔父に当たる伊達宗勝陸奥一関藩主)の政治干渉家臣団対立どの様々な要因重なり父が隠居させられ詳しく伊達綱宗参照)、僅か2歳満年齢1歳4か月)で家督相続した。宗勝や自身叔父に当たる田村宗良陸奥岩沼藩主)などが後見人となったが、家中では父の時代から続く家臣対立や宗勝の専横などが続き混乱続いた。しかも寛文6年1666年)には、綱自身何者の手(宗勝の側近)によって毒殺されかけるほどであったこのような混乱続きの中、寛文11年1671年)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し伊達家改易危機に立たされたが、綱自身若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者処罰されることとなった。こうして、伊達家改易危機から免れた

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伊達騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 23:01 UTC 版)

伊達宗重」の記事における「伊達騒動」の解説

万治3年1660年)、3代藩主伊達綱宗幕府から突然隠居命じられ、綱宗の嫡男で僅か2歳の亀千代藩主となる。幼君後見役として一門大名伊達宗勝任命され仙台藩政の実権は宗勝と、宗勝一派の家老原田宗輔甲斐)らが握ってゆく。宗勝らの専横警戒した宗重は、宗勝に書状送って諫言したが、宗勝は耳を貸さなかったと伝えられる仙台藩地方知行制であり、特に宗重を含む一門万石単位知行領してそれを自らの家中再分配するなど、半ば独立大名の体をなしていた。初代藩主伊達政宗の代に仙台藩領急速な復興成ったのは、こうした一門各家の力によるものであった。これに対して藩主後見人とはいえあくまで代理人立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政取り仕切ることは、宗重を始めとする藩内の有力者には容認し難く、藩内は両者の対立により混乱陥ったこうした中で宗重は、家格年齢的にも反宗勝派の筆頭格目されるうになる。 突然の綱宗隠居から5年後寛文5年1665年)、宗勝の甥である登米領主伊達宗倫と宗重との間に領地争いがおこる。この諍い長引き寛文9年1669年)秋、宗勝ら藩首脳は宗重と宗倫の争点となっていた地域3分の2登米領として裁断下し事態の収拾図ったが、宗重はこの裁定不服として、翌年藩に再吟味訴えるが宗勝らはこれを拒否した一方寛文6年1666年)には、藩主・亀千代毒殺未遂事件発生、さらに寛文8年1668年)、今度は宗勝暗殺計画発覚し首謀者伊東重孝七十郎)が一家ともども処刑された。こうした一連の騒動の中で宗勝への家中反感はますます高まっていった。 領地の件などで度重なる冷遇を受け、またかねてから勝一派と相容れなかった宗重は、事ここに至り、宗勝一派の一掃のため、仙台藩現状幕府訴え決意固める。宗重の考え知った茂庭姓元や片倉景長通称小十郎)らは、藩の内紛幕府知れれば仙台藩改易危機瀕するとして宗重の上訴を諌止したが、藩の現状憂い一門重鎮として藩政正したいという宗重の意思固く結局寛文10年1670年12月、宗重の申し条記した上訴文が幕府提出された。この告発受けて幕府江戸で詮議決定し幕命により宗重は翌寛文11年1671年2月2日涌谷出発同月13日江戸到着した

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