だて‐そうどう〔‐サウドウ〕【伊達騒動】
伊達騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/29 08:31 UTC 版)
伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に伊達家の仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに「三大お家騒動」と呼ばれる。
注釈
- ^ ただしこれは事実でなく、口実であるとする説もある。
- ^ 綱宗の父・忠宗の正室である孝勝院は光政の叔母だった。
- ^ 忠宗の娘婿で綱宗の義兄だった。
- ^ 祖父・政宗の娘婿で忠宗の義弟だった。
- ^ 「万治元年(1659年)12月、隅田川三又(みつまた)で綱宗に遊船の中で吊し斬りにされた。」「仙台侯が請出して56歳で天寿を全うした。」などの逸話が残るが、実際はこの時代には吉原三浦屋に、高尾の名跡の遊女は存在していない[要出典]。
- ^ 伊達騒動関係研究では滝沢武雄が[1]、近世天皇研究関係では久保貴子が[2]、この説を採る。
- ^ 谷地を宗重が3分の1、宗倫が3分の2に分割する案。なお、後年の元禄10年(1697年)に幕府による新たな国絵図の提出を求められたために、参考のために幕府より借用した正保国絵図で宗重の主張が正しかったことが判明するが、不幸にも仙台藩の持っていた控えが紛失したためか、奉行や後見人が証拠資料として参照していた形跡はない。
- ^ 役職は「仙台市史」より抜粋した。
- ^ 柴田、古内、片倉、茂庭が宗重の国目付差出を一度妨害したり、古内と柴田が伊東重孝の死刑を上申したりしているので確固たる派閥とは言い難い。
- ^ 1701年(元禄14年)就任
出典
伊達騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 08:11 UTC 版)
万治3年(1660年)7月、父・綱宗の叔父に当たる伊達宗勝(陸奥一関藩主)の政治干渉や家臣団の対立などの様々な要因が重なり父が隠居させられ(詳しくは伊達綱宗を参照)、僅か2歳(満年齢で1歳4か月)で家督を相続した。宗勝や自身の叔父に当たる田村宗良(陸奥岩沼藩主)などが後見人となったが、家中では父の時代から続く家臣の対立や宗勝の専横などが続き、混乱が続いた。しかも寛文6年(1666年)には、綱村自身が何者かの手(宗勝の側近)によって毒殺されかけるほどであった。 このような混乱続きの中、寛文11年(1671年)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達家は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、伊達家は改易の危機から免れた。
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伊達騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 23:01 UTC 版)
万治3年(1660年)、3代藩主・伊達綱宗が幕府から突然隠居を命じられ、綱宗の嫡男で僅か2歳の亀千代が藩主となる。幼君の後見役として一門の大名・伊達宗勝が任命され、仙台藩政の実権は宗勝と、宗勝一派の家老原田宗輔(甲斐)らが握ってゆく。宗勝らの専横を警戒した宗重は、宗勝に書状を送って諫言したが、宗勝は耳を貸さなかったと伝えられる。 仙台藩は地方知行制であり、特に宗重を含む一門は万石単位の知行を領してそれを自らの家中に再分配するなど、半ば独立大名の体をなしていた。初代藩主・伊達政宗の代に仙台藩領の急速な復興が成ったのは、こうした一門各家の力によるものであった。これに対して、藩主後見人とはいえあくまで代理人の立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政を取り仕切ることは、宗重を始めとする藩内の有力者には容認し難く、藩内は両者の対立により混乱に陥った。こうした中で宗重は、家格・年齢的にも反宗勝派の筆頭格と目されるようになる。 突然の綱宗隠居から5年後の寛文5年(1665年)、宗勝の甥である登米領主・伊達宗倫と宗重との間に領地争いがおこる。この諍いは長引き、寛文9年(1669年)秋、宗勝ら藩首脳は宗重と宗倫の争点となっていた地域の3分の2を登米領として裁断を下し、事態の収拾を図ったが、宗重はこの裁定を不服として、翌年藩に再吟味を訴えるが宗勝らはこれを拒否した。 一方、寛文6年(1666年)には、藩主・亀千代の毒殺未遂事件が発生、さらに寛文8年(1668年)、今度は宗勝暗殺計画が発覚し、首謀者・伊東重孝(七十郎)が一家ともども処刑された。こうした一連の騒動の中で宗勝への家中の反感はますます高まっていった。 領地の件などで度重なる冷遇を受け、またかねてから宗勝一派と相容れなかった宗重は、事ここに至り、宗勝一派の一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。宗重の考えを知った茂庭姓元や片倉景長(通称小十郎)らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして宗重の上訴を諌止したが、藩の現状を憂い、一門の重鎮として藩政を正したいという宗重の意思は固く、結局寛文10年(1670年)12月、宗重の申し条を記した上訴文が幕府に提出された。この告発を受けて幕府は江戸での詮議を決定し、幕命により宗重は翌寛文11年(1671年)2月2日に涌谷を出発、同月13日、江戸に到着した。
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